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談話会・年次大会の記録

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第317回談話会(第6回修士論文報告会)

日 時  2019年6月23日(日)10:30-17:20

会 場  佛教大学紫野キャンパス(京都市北区紫野北花ノ坊町96)
     5号館2階202教室

共 催  日本民俗学会
        
プログラム
10:25-10:30		開会

10:30-11:25		第1報告 大上 将太 氏(佛教大学)
			「鮭と人をめぐる民俗研究—岩手県宮古の事例を中心に—」

11:30-12:25		第2報告 大島 明 氏(立命館大学)
			「伝統的祭礼をめぐる担い手の再構築—1960年代以降の京都・西院における神輿輿丁を例として—」

12:25-13:15		休憩

13:15-14:10		第3報告 谷口 潤 氏(佛教大学)
			「草薙剣と天皇—守護神からレガリアへ—」

14:15-15:10		第4報告 李 軒羽 氏(関西学院大学)
			「中国の現代伝説—学校での伝承を中心に—」

15:10-15:20		休憩

15:20-16:15		第5報告
			荒木 真歩 氏(神戸大学) 「新たな担い手をめぐる伝承の民俗誌的研究—篠原踊り(太鼓踊り)の芸態に着目して—」

16:20-17:15		第6報告
			八木 牧人 氏(佛教大学)「近江の野神をめぐる民俗学的研究」

17:15-17:30		講評・閉会

17:40-			懇親会(1号館地下食堂)

概 要
第1報告 大上 将太 氏(佛教大学)
「鮭と人をめぐる民俗研究―岩手県宮古の事例を中心に―」
本研究は、筆者が岩手県宮古市津軽石地域における鮭の民俗、
とくに『又兵衛祭り』を中心にフィールドワーク調査をした結果をもとに構成している。
津軽石地域において鮭漁は古くから重要な生活資源獲得のための生業として営まれ、
それは現在においても途絶えることなく、現在も津軽石地域における重要な産業の一つとなっている。
また伝承、信仰、祭礼といった民俗的事象も古くから生業と共存し、現在に至るまで継承されている。
津軽石における民俗事象のうち、特に重要視したのは「鮭と人が関わる」ときに発生する、
すなわち生業と共存する民俗であり、その民俗事象にこそ、津軽石地域に暮らす人々のアイデンティティが存在すると考えている。
すなわち、それを研究することは、津軽石という地域における生業と人の関わりにおいて構成される民俗的世界を解明することに他ならない。
本研究では、地域における鮭の民俗事象のうち、代表的な事例である『又兵衛祭り』を主な研究対象とし、
『又兵衛祭り』の本質について解明することを目的としている。
『又兵衛祭り』の本質にアプローチする手段として、又兵衛の所有する祭礼における表象性―又兵衛とは何なのか、に着目し研究した。
現在鮭漁に従事するギョフや漁業組合の方々、
あるいは鮭の民俗に関わる宗教者であるシントウサマの考える『又兵衛』の存在と考え方についての調査をはじめとして、
又兵衛祭りに関わる伝承の変化から考えられる又兵衛の持つ性質の変化
―又兵衛の持つ「殺された異人」「村を救った義民」という異なる側面を持つ部分に注目し、
共通する「又兵衛の死」が又兵衛祭りの本質であるとし、死と豊漁祈願が表裏一体であり、それが又兵衛祭の本質
―「又兵衛は死ななければならず、それが豊漁祈願として祭礼の中で機能している」ことを結論として考察した。

第2報告 大島 明 氏(立命館大学)
「伝統的祭礼をめぐる担い手の再構築―1960年代以降の京都・西院における神輿輿丁を例として―」
祭礼の存立基盤を明らかにする研究では、運営組織の空間的構成や地域間の社会的関係の解明などに主眼が置かれてきた。
しかし、住民の流動性が高い現代では、組織や地域単位の分析では不十分で、担い手個人に焦点を当てなければ空間的解明はできない。
そこで、京都市右京区旧西院村の「春日祭」における神輿の舁き手の居住地構成と、
彼らをめぐるネットワークから祭礼の存立基盤を明らかにした。1967年の資料をみると、
舁き手の88.7%が春日神社の氏子によって占められていた。
しかし、都市化による人口増加に反して1975年頃には祭礼への向き合い方に変化が生じ、舁き手は激減した。
そのため「京都神輿愛好会」からの応援により、神輿巡幸は維持されてきた。
この愛好会は京都市内で神輿巡幸を行う神社の氏子組織と、それ以外の同好会的組織から構成されている。
さらに近年では、旧西院村の氏子の縁故を通じて区域外からの舁き手が増加し、愛好会の人数を上回っている。
その結果、2016年の資料では旧西院村の氏子の舁き手は27.8%に過ぎず、大半は区域外の者によって占められている。
また舁き手の血縁的継承は衰退し、親子が同時に担う家族は減少した。旧西院村の氏子組織は、神輿を有する東西二組から構成される。
近年まで農村景観が残存していた西組では、区域内や近接地域の居住者から舁き手が多く集められ、旧来の氏子仲間の活動に参画している。
農村社会的な諸相を残す西組では、現在も日常的な交流活動が活発で、
京都市内だけでなく宇治市や滋賀県大津市など他府県からも舁き手の受け入れに積極的である。
一方、京都中心部により近い東組では、都市化が早くから進行した。そのため、区域内の舁き手の減少も早くから進行した。
そこで区域への転入者を舁き手として受け入れ、さらに区域外の舁き手を勤務先などの関係から西組以上に広域的に集めるようになったのである。

第3報告 谷口 潤 氏(佛教大学)
「草薙剣と天皇―守護神からレガリアへ―」
従来『記』・『紀』に登場する草薙剣は践祚の際に受け継がれる神璽の剣と同一視され、
天皇の即位儀礼をめぐる研究でもその認識が引き継がれたまま研究が続けられてきた。
しかし神野志隆光が「古代天皇神話の完成」で、それらは別々の形で天皇の正統性を保証していたのであり、
本来神璽の剣と草薙剣は別のものであった事を明らかにし、
さらに両者が『古語拾遺』によって同一視されるようになった事を明らかにした。
さらに斎藤英喜はこれを受け、神野志の作品論的な『古語拾遺』の読みを批判し、
それが斎部氏の祭祀実践と不可分な言説であることを明らかにした。
著者はこうした研究を受け継ぎ、草薙剣と神璽の剣を同一視した『古語拾遺』について草薙剣に関わる言説に注目し、
それが斎部氏の祭祀実践によって生み出されたものであることを明らかにする。
そのためにまず草薙剣及び『記』・『紀』、『古語拾遺』の研究史を概観し、問題の所在と方法論について考察する。
続いて『記』・『紀』における草薙剣について考察し、
それが受け継がれることで天皇の正統性を証明する神璽の剣とは異なる形で天皇の正統性を示していたことを確認する。
そして『古語拾遺』の草薙剣の言説、特に崇神天皇の代に行われたとする神璽の模造の言説について考察し、
それが、編纂者である斎部広成の『紀』を解釈し新たな祭祀を生み出すという実践と不可分な言説であることを明らかにする。
さらに『古語拾遺』以降の草薙剣にも注目し、『古語拾遺』の言説が中世においても引き継がれていったことを確認し、
『古語拾遺』が草薙剣の新たな在り方を生み出していた事を明らかにする。
以上から草薙剣と神璽の剣は全く異なるものであり、
それが斎部氏の祭祀実践によって生み出された言説であることを明らかにすることで、
両者を無批判に混同する従来の研究を批判し、神器によった天皇の正統性の論理もまた、
様々な言説によって再構築され続けてきたものであることを示す。

第4報告 李 軒羽 氏(関西学院大学)
「中国の現代伝説―学校での伝承を中心に―」
現代伝説(もしくは都市伝説)は、現代社会で起こる不思議な出来事についてのうわさ話である。
幽霊、妖怪にまつわる話のほか、風刺譚、陰謀論などの姿もしばしば見受けられる。
アメリカをはじめとする西洋諸国では、現代伝説に対する研究が盛んに行われてきている。
そのブームに影響されつつ、日本の民俗学においても当該領域が注目されるようになった。
中国で多くの現代伝説が流布しているにもかかわらず、それらを体系的に分析する先行研究は極めて少ない。
特に、「学校の怪談」など、学生が伝承する話を考察する著書・論文はあまり見出すことができない。
本研究は、日中比較を試みることで、学校空間の中で、現代伝説と思われるうわさ話がどのように成立し、
展開していくのかを明らかにしたものである。中国の現代伝説研究の成果をも整理し、そこに潜んでいる問題点を洗い出そうとした。
また、「赤い紙、青い紙」など、心霊現象に関する著名な事例を取り上げることで、
中国の学校で、日本の影響を受けた話と古代中国の民俗伝承をアレンジしただけの話が混在して語られている現状を明らかにした。
さらに、「保研路」という、大学院裏口入学に関する中国独自の話への調査を通して、
2000年代以降の中国では、怪談よりも、社会問題に由来する現代伝説が広く浸透しているという傾向を捉えることができた。

第5報告 荒木 真歩 氏(神戸大学)
「新たな担い手をめぐる伝承の民俗誌的研究―篠原踊り(太鼓踊り)の芸態に着目して―」
本発表は、新しい担い手が参与していくような現象に象徴されるような現代的文脈のなかで、
民俗芸能がいかに伝承されていくのかを捉え直すことを目的としている。
これまで民俗芸能の担い手は地縁的な関係を持つことが強調されてきたが、
現在では地縁的関係を持たない様々な立場の「よそ者」の参与が多くなり、実体にそぐわなくなってきている。
これらの人々も民俗芸能の活用・改良・再創造・変化など共に「管理」する「新たな担い手」と捉え直し、
中心に扱うことが求められている。
伝承研究には正統的周辺参加論の影響を受けた伝承現場論が主流であるが、
「新たな担い手」が多く参与する文脈の中では、正統的周辺参加のプロセスが変わることが予想される。
今回はそれにより伝承する上で影響が大きく表れる一つと考えられる、芸態(身体技法)の変化に着目する。
事例として扱う篠原踊りは、奈良県五條市大塔篠原に伝わる風流太鼓踊りである。
近年に一時中断しており、2015年に文化財行政が主導して公募で奈良県内外より新たな担い手が加わり、再始動した。
はじめは篠原集落在住者・出身者の社会関係が伝承する上で強く働いていたが、
次第に篠原集落のしがらみのない「新たな担い手」が篠原集落在住者・出身者によって、
上手く調整役として使われるようになった。しかしそれだけではなく、過去の記録映像を使用した芸態の習得では、
「新たな担い手」が主体的に現在の篠原集落の社会関係とは別の側面から伝承の意味を見出し、
芸態を変化させながら習得する場面も見られた。また文化財行政担当者も一人の太鼓打ちとして踊りを習得し、
半新人として新人を教授するといった「新たな担い手」同士の教授−習得関係も生まれた。
それらはこれまで考えられてきた正統的な伝承のプロセスとは異なり、
「新たな担い手」が状況に応じて能動的・受動的にポジションを変え、
さらに「新たな担い手」の中でも複数の顔を持ち、自身の都合の良いように芸態を変化させながら教授−習得に参与している。

第6報告 八木 牧人 氏(佛教大学)
「近江の野神をめぐる民俗学的研究」
野神は徳島県・大阪府・奈良県・京都府・滋賀県に見られ、一般的には五穀豊穣のカミと認識されている。
野神についての先行研究は多くなく、それらも巨木信仰など特定の視点からの研究であり、
野神そのものを正面から調査・論述したものは乏しい。本稿では、野神が農耕神として祀られている理由を、
近江(滋賀県)を対象に、周辺の山、耕地、河川、用水路、居住地域などとの位置関係に注目して調査を行い、
カミとしての性格、山の神など他の自然神との関係を考察した。
近江の野神は、文字史料では地名では鎌倉時代にまで遡れるが、
カミとして祀られていることを確認できる史料は近世以降に限られる。
県内でも、野神は湖南・湖東・湖北広く分布するが、湖西ではほぼ皆無である。
現在の立地を観察すると、野神は主に@河川・用水路沿いと、A耕作地と接する山麓、の2ヶ所に祀られている。
前者は、元々は河原や後背湿地・氾濫原にあった草刈場に祀られていたカミであったと考える。
「野」とは元来は居住地や耕地と、山や河川との間に広がる湿地や草地であり、
農村にとっては未開拓ながらも刈敷の草亜、薪炭・木材の供給源として活用されていた。
野神はこのような地のカミとして祀られていたと推定される。このような土地が開墾された後も、
地名として「野」は残り、次第に「野」と呼ばれる耕地が多くなった結果、
水耕稲作の水利を守るカミという性格が強くなってゆき、用水路脇などにも祀られるようになったと考えられる。
後者は山の口に祀られた山の神と、それに接する開墾された「野」のカミが一体化したものと考える。
近江の野神と山の神は、同一神・夫婦などと解釈され一体化の素地がある。湖南・湖東では、
山の神と野神の一体化は現在の様々な形態にその過程を見ることができる。
一体化は平地部農村の山との疎遠化が大きな理由と考えられるが、
どちらに一体化されるか、地域全体が同一方向へ向かう理由は明らかではない。

第316回

日 時 2019年5月24日(金)18:30−21:00

会 場 ウィングス京都2階セミナー室B

発表者 澤野美智子 氏(立命館大学)

論 題 企業経営における精神論的実践と家族主義—A社の事例についての文化人類学的考察—

要 旨
本発表は、日本の企業経営における精神論的実践について文化人類学的に考察することを目的とする。
企業文化を研究対象とする経営人類学の先行研究では、社内の神棚や神社、社葬、企業墓など、
教義や教会を擁する宗教(例えば神道や仏教)と企業の関わりに注目してきた。

加えて文化人類学では、教義や教会を擁する「◯◯教」だけでなく、
呪術や信仰、儀礼や祝祭、スピリチュアリティといった幅広い内容を宗教に含める。
宗教をこのように広い文脈で捉えると、日本の企業経営においては、
特定の体系的な宗教との関わり以外にも様々な形で、
宗教実践として解釈しうる精神論的実践が行なわれていることが見えてくる。

発表者は大阪府内のA社で2年半以上にわたってフィールドワークを継続してきた。
本発表では、「やさしいきもち」を重視して経営するA社の事例をもとに、
精神論的な要素を含む実践に注目し、それらが経営とどのように結びついているのか、
またそれらが支持される背景には何があるのかを、主に家族主義との関係から考察する。

第315回

日 時 2019年4月26日(金)18:30−21:00

会 場 ウィングス京都2階セミナー室B

発表者 山ア 遼 氏(立命館大学大学院文学研究科)

論 題 スコットランドの民俗学

要 旨
今回の談話会では、欧米民俗学の一翼を担う英国スコットランドの民俗学について紹介する。
スコットランドは英国の中でもとりわけ力強い民俗学の伝統を有しており、
他のヨーロッパ諸国や北アメリカの民俗学とならんで発展してきた。
今回の談話会ではそのスコットランド民俗学の流れと現状について紹介する。
そして、その展開は(1)研究対象の変化、(2)研究目的の変化、
(3)研究協力者との関係の変化、(4)資料の扱い方の変化という4つの変化に集約されると論じる。
その後、1950年代中期よりスコットランド民俗学の中心の一つを成してきた
少数民族スコティッシュ・トラベラー(Scottish Travellers)およびその研究について紹介する。
トラベラーはスコットランドの先住民とも呼ばれる移動民族で、
彼らに対する研究は定住社会のスコットランドの文化・伝統観を相対化し、
スコットランド内部に文化的多様性をもたらす存在であると結論づける。
発表後には、日本民俗学との興味、目的、理論、方法などの相違点について議論できればと考えている。

第314回談話会(第10回卒業論文報告会)

日 時  2019年3月16日(土)13:00〜17:20

会 場  立命館大学衣笠キャンパス KG(敬学館)216・217教室(キャンパスマップS)
     2会場での開催です

共 催  日本民俗学会
        
概 要
A会場・216教室
第1報告 佐々木 天(天理大学文学部)
「幟と旗飴―奈良県における初午行事の変化と意味―」
奈良県の初午の稲荷祭に「旗飴」という特殊な風習がある。
旗飴とは、長さ20cm程の竹と紙でできた旗の先に飴がついた供え物で、
これを稲荷を祀る家や神社で子供に配る風習もいう。
旗飴は、これまで民俗学的な調査がされていなかった。
本論は、聞き取りと文献から、旗飴の内容と分布を明らかにした。
その結果、奈良盆地南部の香芝市、葛城市、大和高田市、
橿原市、桜井市に広がっていた。
また、大正5年(1915)の『奈良県風俗誌』の初午の項目を調べたところ、
旗飴に関する記述はなく、かわりに幟や供物を配る風習があり、
分布は旗飴と同じであった。
さらに、橿原市新沢地区で調査を行い、供物を配布する家と、
旗飴を配布する家が並存しており、旗飴は新しく配るようになったという情報を得た。
以上により、旗飴は、幟と供物配布の風習から変化したと考えられる。
話者の年齢と風俗誌の記述を考慮すると、
旗飴は、大正5年以降、昭和15(1940)年頃までの間に始まったと推測できる。
今後の課題として、分布の偏りからみて、
この習俗が大阪方面から伝播した可能性があり、その検証がある。


第2報告 園田 優一(佛教大学歴史学部) 
「俵藤太伝承考」
本発表は、滋賀県の伝説として知られている、俵藤太の百足退治伝説を取り上げる。
研究の主な目的としては、この伝説が歴史における事実を語っているのかについて考え、
また史料では近江との関わりが見られない秀郷がなぜ近江の伝説で
英雄・俵藤太として語られるようになったのかについて考察する。
この伝説が語る真意として考えられている説は、
百足と金属との関わりから金属文化の争いであるという説や、
秀郷が将門を討ち取った事実を脚色したものだとする説などがある。
そこで、藤太(秀郷)、百足、将門の三点を中心にして調査しその結果、
近江の地には古くから製鉄に関わる文化が存在していたと考えられること、
近江や京都に秀郷の子孫たちが勢力を伸ばしていたことが分かった。
それらのことから、結論として物語の成立過程において金属に関わる要素に
将門討伐という要素が上から重ねられ、
現在まで語られているような物語となったのであると考えた。


第3報告 唐澤 健治(佛教大学歴史学部)
「京都の幕末史蹟碑をめぐる観光民俗学試論」
平安京遷都以来、長い歴史を持つ京都では街角の各所で史蹟碑を見掛けるが、
史蹟碑は現存しない歴史的建造物や事件跡、
歴史上の人物の居住地などを示す指標である。
一方でフォークロリズムの概念から史蹟碑を捉えると、
史跡巡りツアーなどに活用されている観光資源でもある。
本論文ではこうした史蹟碑の中で特に観光資源として活用されている
幕末史蹟碑に焦点をあて、具体的な活用例を通して
幕末史蹟碑が京都の観光にどのように貢献しているのかを考察した。
幕末史蹟碑の集中している河原町三条地域でフィールドワークを行い、
史蹟碑の現状と観光への活用の状況を調査した。
池田屋事件跡地の石碑は史蹟にまつわる新選組をテーマとした居酒屋として営業し、
薄桜鬼というアニメキャラクターを前面に出し、アニメファンの集客を図っている。
その一方で、幕末史ファンの多い坂本龍馬が京都に於ける海援隊の拠点とした酢屋は、
坂本龍馬活躍時の趣を建物に残し、今なお当時の一族が歴史を生かし営業を続けている。
こうした対照的な活用方法を分析し、
将来の京都観光のあるべき姿について考察を行った。


第4報告 岡 栞奈(ものつくり大学技能工芸学部)
「学生・市民参加型リノベーションプロジェクトのモノグラフ研究」
本研究が目指すのは、市民参加型の建築プロジェクトへ参加し
観察したモノグラフに基づき、
関係者相互のコミュケーション不全による問題点を発見し、
将来の建築プロジェクト特に市民参加型ワークショップに資する知見を得ることである。
取材対象とした「Dプロジェクト」(仮称)は、
南関東の山間部H町にある廃屋(木造古民家)を、
将来的にコミュニティ施設として活用することを目的としている。
関係者は、大工、設計士、施主関係者(Dプロジェクトの中心人物であるS寺住職と、
公務員・不動産鑑定士・障害者施設職員など非職人含め約二〇名)、
設計系学生(首都圏の建築系学生によるリノベーションクラブ)、
そして発表者を含む本学の学生で、延べ人数は約五〇〇名となる。
発表者は、二〇一八年五月から九月へかけて関与した。
考察に当たっては、セルフビルド建築として蟻鱒鳶ル(東京・三田)を、
またリノベーションプロジェクトとしてOJIKAJIMA古民家WORKSHOP(長崎・小値賀島)を、
比較対象として取り上げ検討した。


第5報告 川路 瑞紀(関西学院大学社会学部)
「廃仏毀釈のゆくえ−鹿児島県日置市「妙円寺詣り」の事例−」
本研究は、鹿児島県日置市伊集院町をフィールドに、
鹿児島三大行事の一つである「妙円寺詣り」について実地調査を行なうことで、
鹿児島県において、廃仏毀釈が現在に残したものとは何かを明らかにしたものである。
明治時代に、鹿児島県において過激であった廃仏毀釈により、
島津義弘の菩提寺である妙円寺は廃寺となり、その跡地に徳重神社が創建された。
その際、元々は妙円寺に参拝されていた妙円寺詣りが、
徳重神社に参拝されるようになり、
妙円寺が復興した現在も、徳重神社に参拝する形が継続している。
その結果、妙円寺と徳重神社を同一だと勘違いする人々がおり、
妙円寺に弊害が生じたことや、
徳重神社は、妙円寺詣りの際に徳重神社に参拝するといった現状について、
歴史的事実であると考えていること、
市としては、妙円寺と徳重神社に対し差別や優遇は全くないが、
参拝は宗教的行為であるため、
市が参拝場所について誘導するのは難しい状態であること等について明らかにした。


第6報告 松永 綾佳(奈良大学文学部)
「雑誌『民俗台湾』と「趣意書」論争と二つの座談会」
これまでの雑誌『民俗台湾』の研究については、
主に川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』で触れられたことやその批判や、
『民俗台湾』を自分の研究のツールの一つとしての研究が主に行われてきた。
しかし、ここでは雑誌『民俗台湾』自体について、雑誌刊行以前の『民俗台湾』の
「趣意書」論争と行われた二つの座談会から時代順に見ていく。
戦時期という激動の時代の中で、
『民俗台湾』は当初の方針から対外的(主に皇民奉行会)、
戦局の悪化などによる問題から変更せざる得ない点があった。
しかし、ここでは繰り返し、「資料の採集、蒐集」の重要性について
触れられていることが見えてくる。
そして、この点についてはあくまでも曲げない方針をとることが一貫されている。
この「資料の採集、蒐集」については、
現代の他文化や伝統文化を研究する際にも充分考えられることである。
また、今までの『民俗台湾』とそこに集ったメンバーの
「戦争協力かどうか否かについて」の違った一面を見ることもできる。
そして何より、『民俗台湾』が後世において貴重な資料と成りうることを
再確認することができる。


B会場・217教室
第1報告 木内 美佐(佛教大学歴史学部)
「さぬき市志度の多和神社秋季例大祭」
多和神社秋季例大祭は、香川県の東部に位置するさぬき市志度で行われており、
その年の新穀を神に供えて収穫を感謝することを目的としている。
毎年交代で祭りの運営や神輿の先導を務める当屋制が見られ、
また瀬戸内海沿岸を中心として多くみられる太鼓台を用いた勇壮で迫力ある祭りである。
本研究の目的は、多和神社秋季例大祭がどのようなものであるかを理解し、
併せてその歴史背景や地域的特徴、祭りの現状を知ることである。
また、地域の人々の祭りに対する想いや問題点、取り組みについても調査し、
論文という形に残すことで未来に伝えていく力になりたいと考える。
論文の構成として、第1章「多和神社秋季例大祭の全容」では、
神社や祭りの組織・内容、祭り当日の調査結果について、
第2章「当屋制と太鼓台」では、地区と組の関係や組の特徴、
瀬戸内地域の太鼓台について、
そして第3章「多和神社秋季例大祭の現状」では、
地域住民の想いや、それまでの調査をもとに考察していく。


第2報告 八田 将史(滋賀県立大学人間文化学部)
「近江八幡市馬淵における複数村落祭祀の変遷」
複数村落祭祀とは、複数の村落が郷社と呼ばれる地域共通の神社でおこなわれる祭りを指す。
なぜ複数の村落が一緒になって祭りをおこなうのか、その要因は様々であり、
村落間の水利や山といった利害関係で説明されることが多い。
近年の研究者は複数村落祭祀における宮座は水利や山といった
自然環境によって規制されるとしている。
この視点に私は疑問を持ち、複数村落祭祀の中に水利・宮座が存在する代表例として、
滋賀県近江八幡市の馬淵祭りを取り上げ考察する。
馬淵祭りは萩原・原田の宮座論争以降宮座の本質を考える上で
重要なフィールドであった。
萩原が「四分四分の二分」は水利配分であり、
祭りの成立には水利と宮座が密接にかかわるとし、
以後の研究者も馬淵祭りを水利・宮座が関係する複数村落祭祀の代表例として
取り上げてきた。
馬淵祭りの変遷を明らかにすることで、
複数村落祭祀は水利を代表とする環境資源によって規制されているのかを
明らかにしていきたい。


第3報告 赤井 詩織(関西学院大学社会学部)
パフォーマンス化するススキ提灯−奈良県御所市鴨都波神社の事例−
奈良県御所市宮前町に位置する鴨都波神社をフィールドし、
鴨都波神社の「ススキ提灯」「ススキ提灯献灯行事」について調査した。
ススキ提灯は御所市の27の神社に分布している。
その中で唯一、鴨都波神社はススキ提灯を用い、「パフォーマンス」を行っている。
なぜ、鴨都波神社のススキ提灯献灯行事にパフォーマンスが生まれ、
また、どのように突出したのかを現地調査により、以下の3点を明らかにした。
 1. ススキ提灯献灯行事の際、ススキ提灯は、各神社で静かに奉納されていた。
 2. 25年前の若衆会結成以来、祭りの際、鴨都波神社では
      ススキ提灯を用いてパフォーマンスを行うように変化した。
      鴨都波神社のススキ提灯が御所の中で突出する現象が起きた。
 3. 近年、鴨都波神社のススキ提灯は、平成25年東京NHKホールで行われた
      第13回地域伝統芸能まつり等、全国様々なイベントに登場している。
      鴨都波神社のススキ提灯は、御所の中で突出し、
      さらに、全国に拡大する現象が起きたと考えられる。


第4報告 林 紀予(佛教大学歴史学部)
「艦内神社をめぐる一考察」
艦内神社とは、武運長久や安全を祈願して、
大日本帝国海軍の艦艇内に設置された、天照大神を主神とする神社である。
その成立年代は不明であるが、国家神道下で形成・発展し、
多くの艦艇に設置されてきた。
船の安全を祈願する事例として、
日本には古来より漁師や船乗りに信仰されてきた船霊信仰が存在する。
艦内神社と船霊は、どちらも船の守り神という性質を持ち、
軍人や漁民に信仰されてきた。
本研究では、艦内神社、国家神道、船霊信仰の三つの観点から、
国家神道の興隆と艦内神社の成立・形成過程、
艦内神社と船霊信仰の関連性の有無を明らかにし、
なぜ旧海軍の艦艇には、船霊ではなく艦内神社が祀られたのかを
考察することを目的としている。


第5報告 奥田 日和(滋賀県立大学人間文化学部)
「東近江のムラにおける垣内の機能」
ムラ組とは村落内で内部区分され、数組の家々でまとまった地縁集団のことで、
その呼称は多種多様である。
ムラ組の中では秩序や平等性が貫徹しており、様々な生活互助がおこなわれる。
滋賀県の東近江市や日野町などではムラ組が存在していた地域が多く見られるが、
研究の展開がないまま、ムラ組の機能のみならず、
ムラ組の存在自体も失われつつある状況である。
今回は東近江市芝原町の「垣内」と呼ばれるムラ組に着目する。
ムラの中で4つの垣内というグループに分けられ、
それらは現在でも、それぞれの独立性を保って存在している。
芝原の暮らし、生業、信仰、冠婚葬祭、年中行事などの
民俗文化や村落運営上などにおける垣内の機能を、
聞き取り調査や近代史料などから明らかにし、周辺他村のムラ組と比較することで、
他の呼称を持つムラ組と差異はあるのか、
芝原の垣内の機能的変化とその存続について考えていきたい。

第313回

日 時 2019年1月25日(金)18:30−21:00

会 場 ウィングス京都2階ビデオシアター

発表者 武笠俊一氏(三重大学名誉教授/民俗学、地域社会学)

論 題 渋沢敬三の「野外博物館」構想 ーその夢と挫折ー

要 旨
昭和10年代初め、渋沢敬三は今和次郎・高橋文太郎の協力を得て「民族学博物館」の建設を試みた。
それはストックホルム(スェーデン)の「スカンセン博物館」のような
野外博物館を日本に建設しようとする壮大な試みであった。
当初、渋沢たちは国立博物館としての建設を目指したが、戦局の悪化とともに行き詰まり、
高橋文太郎が提供した東京市郊外の保谷の土地に、小規模な博物館が開設された。
この博物館には、渋沢の構想にそって「民族研究所」が併設された。
この研究所は戦争激化の中で国立(文部省)に移管し、国家主義的な政策の一翼を担うことになる。
この国立移管を主導し研究所の運営に辣腕をふるったのが、渋沢敬三の親友であった岡正雄であった。
しかし、岡の活躍は、結果的に博物館と研究所の廃止を招く。
戦後1977年大阪府吹田市に「国立民族学博物館」が建設され、
初代館長の梅棹忠夫は「渋沢敬三の夢が実現した」と誇らしげに語った。
しかし、この博物館は渋沢の夢とは似て非なるものであった。
それは渋沢たちの野外博物館構想を詳細に検討すれば明らかなことである。
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