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談話会・年次大会の記録

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第314回談話会(第10回卒業論文報告会)

日 時  2019年3月16日(土)13:00〜17:20

会 場  立命館大学衣笠キャンパス KG(敬学館)216・217教室(キャンパスマップS)
     2会場での開催です

共 催  日本民俗学会
        
概 要
A会場・216教室
第1報告 佐々木 天(天理大学文学部)
「幟と旗飴―奈良県における初午行事の変化と意味―」
奈良県の初午の稲荷祭に「旗飴」という特殊な風習がある。
旗飴とは、長さ20cm程の竹と紙でできた旗の先に飴がついた供え物で、
これを稲荷を祀る家や神社で子供に配る風習もいう。
旗飴は、これまで民俗学的な調査がされていなかった。
本論は、聞き取りと文献から、旗飴の内容と分布を明らかにした。
その結果、奈良盆地南部の香芝市、葛城市、大和高田市、
橿原市、桜井市に広がっていた。
また、大正5年(1915)の『奈良県風俗誌』の初午の項目を調べたところ、
旗飴に関する記述はなく、かわりに幟や供物を配る風習があり、
分布は旗飴と同じであった。
さらに、橿原市新沢地区で調査を行い、供物を配布する家と、
旗飴を配布する家が並存しており、旗飴は新しく配るようになったという情報を得た。
以上により、旗飴は、幟と供物配布の風習から変化したと考えられる。
話者の年齢と風俗誌の記述を考慮すると、
旗飴は、大正5年以降、昭和15(1940)年頃までの間に始まったと推測できる。
今後の課題として、分布の偏りからみて、
この習俗が大阪方面から伝播した可能性があり、その検証がある。


第2報告 園田 優一(佛教大学歴史学部) 
「俵藤太伝承考」
本発表は、滋賀県の伝説として知られている、俵藤太の百足退治伝説を取り上げる。
研究の主な目的としては、この伝説が歴史における事実を語っているのかについて考え、
また史料では近江との関わりが見られない秀郷がなぜ近江の伝説で
英雄・俵藤太として語られるようになったのかについて考察する。
この伝説が語る真意として考えられている説は、
百足と金属との関わりから金属文化の争いであるという説や、
秀郷が将門を討ち取った事実を脚色したものだとする説などがある。
そこで、藤太(秀郷)、百足、将門の三点を中心にして調査しその結果、
近江の地には古くから製鉄に関わる文化が存在していたと考えられること、
近江や京都に秀郷の子孫たちが勢力を伸ばしていたことが分かった。
それらのことから、結論として物語の成立過程において金属に関わる要素に
将門討伐という要素が上から重ねられ、
現在まで語られているような物語となったのであると考えた。


第3報告 唐澤 健治(佛教大学歴史学部)
「京都の幕末史蹟碑をめぐる観光民俗学試論」
平安京遷都以来、長い歴史を持つ京都では街角の各所で史蹟碑を見掛けるが、
史蹟碑は現存しない歴史的建造物や事件跡、
歴史上の人物の居住地などを示す指標である。
一方でフォークロリズムの概念から史蹟碑を捉えると、
史跡巡りツアーなどに活用されている観光資源でもある。
本論文ではこうした史蹟碑の中で特に観光資源として活用されている
幕末史蹟碑に焦点をあて、具体的な活用例を通して
幕末史蹟碑が京都の観光にどのように貢献しているのかを考察した。
幕末史蹟碑の集中している河原町三条地域でフィールドワークを行い、
史蹟碑の現状と観光への活用の状況を調査した。
池田屋事件跡地の石碑は史蹟にまつわる新選組をテーマとした居酒屋として営業し、
薄桜鬼というアニメキャラクターを前面に出し、アニメファンの集客を図っている。
その一方で、幕末史ファンの多い坂本龍馬が京都に於ける海援隊の拠点とした酢屋は、
坂本龍馬活躍時の趣を建物に残し、今なお当時の一族が歴史を生かし営業を続けている。
こうした対照的な活用方法を分析し、
将来の京都観光のあるべき姿について考察を行った。


第4報告 岡 栞奈(ものつくり大学技能工芸学部)
「学生・市民参加型リノベーションプロジェクトのモノグラフ研究」
本研究が目指すのは、市民参加型の建築プロジェクトへ参加し
観察したモノグラフに基づき、
関係者相互のコミュケーション不全による問題点を発見し、
将来の建築プロジェクト特に市民参加型ワークショップに資する知見を得ることである。
取材対象とした「Dプロジェクト」(仮称)は、
南関東の山間部H町にある廃屋(木造古民家)を、
将来的にコミュニティ施設として活用することを目的としている。
関係者は、大工、設計士、施主関係者(Dプロジェクトの中心人物であるS寺住職と、
公務員・不動産鑑定士・障害者施設職員など非職人含め約二〇名)、
設計系学生(首都圏の建築系学生によるリノベーションクラブ)、
そして発表者を含む本学の学生で、延べ人数は約五〇〇名となる。
発表者は、二〇一八年五月から九月へかけて関与した。
考察に当たっては、セルフビルド建築として蟻鱒鳶ル(東京・三田)を、
またリノベーションプロジェクトとしてOJIKAJIMA古民家WORKSHOP(長崎・小値賀島)を、
比較対象として取り上げ検討した。


第5報告 川路 瑞紀(関西学院大学社会学部)
「廃仏毀釈のゆくえ−鹿児島県日置市「妙円寺詣り」の事例−」
本研究は、鹿児島県日置市伊集院町をフィールドに、
鹿児島三大行事の一つである「妙円寺詣り」について実地調査を行なうことで、
鹿児島県において、廃仏毀釈が現在に残したものとは何かを明らかにしたものである。
明治時代に、鹿児島県において過激であった廃仏毀釈により、
島津義弘の菩提寺である妙円寺は廃寺となり、その跡地に徳重神社が創建された。
その際、元々は妙円寺に参拝されていた妙円寺詣りが、
徳重神社に参拝されるようになり、
妙円寺が復興した現在も、徳重神社に参拝する形が継続している。
その結果、妙円寺と徳重神社を同一だと勘違いする人々がおり、
妙円寺に弊害が生じたことや、
徳重神社は、妙円寺詣りの際に徳重神社に参拝するといった現状について、
歴史的事実であると考えていること、
市としては、妙円寺と徳重神社に対し差別や優遇は全くないが、
参拝は宗教的行為であるため、
市が参拝場所について誘導するのは難しい状態であること等について明らかにした。


第6報告 松永 綾佳(奈良大学文学部)
「雑誌『民俗台湾』と「趣意書」論争と二つの座談会」
これまでの雑誌『民俗台湾』の研究については、
主に川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』で触れられたことやその批判や、
『民俗台湾』を自分の研究のツールの一つとしての研究が主に行われてきた。
しかし、ここでは雑誌『民俗台湾』自体について、雑誌刊行以前の『民俗台湾』の
「趣意書」論争と行われた二つの座談会から時代順に見ていく。
戦時期という激動の時代の中で、
『民俗台湾』は当初の方針から対外的(主に皇民奉行会)、
戦局の悪化などによる問題から変更せざる得ない点があった。
しかし、ここでは繰り返し、「資料の採集、蒐集」の重要性について
触れられていることが見えてくる。
そして、この点についてはあくまでも曲げない方針をとることが一貫されている。
この「資料の採集、蒐集」については、
現代の他文化や伝統文化を研究する際にも充分考えられることである。
また、今までの『民俗台湾』とそこに集ったメンバーの
「戦争協力かどうか否かについて」の違った一面を見ることもできる。
そして何より、『民俗台湾』が後世において貴重な資料と成りうることを
再確認することができる。


B会場・217教室
第1報告 木内 美佐(佛教大学歴史学部)
「さぬき市志度の多和神社秋季例大祭」
多和神社秋季例大祭は、香川県の東部に位置するさぬき市志度で行われており、
その年の新穀を神に供えて収穫を感謝することを目的としている。
毎年交代で祭りの運営や神輿の先導を務める当屋制が見られ、
また瀬戸内海沿岸を中心として多くみられる太鼓台を用いた勇壮で迫力ある祭りである。
本研究の目的は、多和神社秋季例大祭がどのようなものであるかを理解し、
併せてその歴史背景や地域的特徴、祭りの現状を知ることである。
また、地域の人々の祭りに対する想いや問題点、取り組みについても調査し、
論文という形に残すことで未来に伝えていく力になりたいと考える。
論文の構成として、第1章「多和神社秋季例大祭の全容」では、
神社や祭りの組織・内容、祭り当日の調査結果について、
第2章「当屋制と太鼓台」では、地区と組の関係や組の特徴、
瀬戸内地域の太鼓台について、
そして第3章「多和神社秋季例大祭の現状」では、
地域住民の想いや、それまでの調査をもとに考察していく。


第2報告 八田 将史(滋賀県立大学人間文化学部)
「近江八幡市馬淵における複数村落祭祀の変遷」
複数村落祭祀とは、複数の村落が郷社と呼ばれる地域共通の神社でおこなわれる祭りを指す。
なぜ複数の村落が一緒になって祭りをおこなうのか、その要因は様々であり、
村落間の水利や山といった利害関係で説明されることが多い。
近年の研究者は複数村落祭祀における宮座は水利や山といった
自然環境によって規制されるとしている。
この視点に私は疑問を持ち、複数村落祭祀の中に水利・宮座が存在する代表例として、
滋賀県近江八幡市の馬淵祭りを取り上げ考察する。
馬淵祭りは萩原・原田の宮座論争以降宮座の本質を考える上で
重要なフィールドであった。
萩原が「四分四分の二分」は水利配分であり、
祭りの成立には水利と宮座が密接にかかわるとし、
以後の研究者も馬淵祭りを水利・宮座が関係する複数村落祭祀の代表例として
取り上げてきた。
馬淵祭りの変遷を明らかにすることで、
複数村落祭祀は水利を代表とする環境資源によって規制されているのかを
明らかにしていきたい。


第3報告 赤井 詩織(関西学院大学社会学部)
パフォーマンス化するススキ提灯−奈良県御所市鴨都波神社の事例−
奈良県御所市宮前町に位置する鴨都波神社をフィールドし、
鴨都波神社の「ススキ提灯」「ススキ提灯献灯行事」について調査した。
ススキ提灯は御所市の27の神社に分布している。
その中で唯一、鴨都波神社はススキ提灯を用い、「パフォーマンス」を行っている。
なぜ、鴨都波神社のススキ提灯献灯行事にパフォーマンスが生まれ、
また、どのように突出したのかを現地調査により、以下の3点を明らかにした。
 1. ススキ提灯献灯行事の際、ススキ提灯は、各神社で静かに奉納されていた。
 2. 25年前の若衆会結成以来、祭りの際、鴨都波神社では
      ススキ提灯を用いてパフォーマンスを行うように変化した。
      鴨都波神社のススキ提灯が御所の中で突出する現象が起きた。
 3. 近年、鴨都波神社のススキ提灯は、平成25年東京NHKホールで行われた
      第13回地域伝統芸能まつり等、全国様々なイベントに登場している。
      鴨都波神社のススキ提灯は、御所の中で突出し、
      さらに、全国に拡大する現象が起きたと考えられる。


第4報告 林 紀予(佛教大学歴史学部)
「艦内神社をめぐる一考察」
艦内神社とは、武運長久や安全を祈願して、
大日本帝国海軍の艦艇内に設置された、天照大神を主神とする神社である。
その成立年代は不明であるが、国家神道下で形成・発展し、
多くの艦艇に設置されてきた。
船の安全を祈願する事例として、
日本には古来より漁師や船乗りに信仰されてきた船霊信仰が存在する。
艦内神社と船霊は、どちらも船の守り神という性質を持ち、
軍人や漁民に信仰されてきた。
本研究では、艦内神社、国家神道、船霊信仰の三つの観点から、
国家神道の興隆と艦内神社の成立・形成過程、
艦内神社と船霊信仰の関連性の有無を明らかにし、
なぜ旧海軍の艦艇には、船霊ではなく艦内神社が祀られたのかを
考察することを目的としている。


第5報告 奥田 日和(滋賀県立大学人間文化学部)
「東近江のムラにおける垣内の機能」
ムラ組とは村落内で内部区分され、数組の家々でまとまった地縁集団のことで、
その呼称は多種多様である。
ムラ組の中では秩序や平等性が貫徹しており、様々な生活互助がおこなわれる。
滋賀県の東近江市や日野町などではムラ組が存在していた地域が多く見られるが、
研究の展開がないまま、ムラ組の機能のみならず、
ムラ組の存在自体も失われつつある状況である。
今回は東近江市芝原町の「垣内」と呼ばれるムラ組に着目する。
ムラの中で4つの垣内というグループに分けられ、
それらは現在でも、それぞれの独立性を保って存在している。
芝原の暮らし、生業、信仰、冠婚葬祭、年中行事などの
民俗文化や村落運営上などにおける垣内の機能を、
聞き取り調査や近代史料などから明らかにし、周辺他村のムラ組と比較することで、
他の呼称を持つムラ組と差異はあるのか、
芝原の垣内の機能的変化とその存続について考えていきたい。

第313回

日 時 2019年1月25日(金)18:30−21:00

会 場 ウィングス京都2階ビデオシアター

発表者 武笠俊一氏(三重大学名誉教授/民俗学、地域社会学)

論 題 渋沢敬三の「野外博物館」構想 ーその夢と挫折ー

要 旨
昭和10年代初め、渋沢敬三は今和次郎・高橋文太郎の協力を得て「民族学博物館」の建設を試みた。
それはストックホルム(スェーデン)の「スカンセン博物館」のような
野外博物館を日本に建設しようとする壮大な試みであった。
当初、渋沢たちは国立博物館としての建設を目指したが、戦局の悪化とともに行き詰まり、
高橋文太郎が提供した東京市郊外の保谷の土地に、小規模な博物館が開設された。
この博物館には、渋沢の構想にそって「民族研究所」が併設された。
この研究所は戦争激化の中で国立(文部省)に移管し、国家主義的な政策の一翼を担うことになる。
この国立移管を主導し研究所の運営に辣腕をふるったのが、渋沢敬三の親友であった岡正雄であった。
しかし、岡の活躍は、結果的に博物館と研究所の廃止を招く。
戦後1977年大阪府吹田市に「国立民族学博物館」が建設され、
初代館長の梅棹忠夫は「渋沢敬三の夢が実現した」と誇らしげに語った。
しかし、この博物館は渋沢の夢とは似て非なるものであった。
それは渋沢たちの野外博物館構想を詳細に検討すれば明らかなことである。
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