第340回談話会(第13回卒業論文報告会)

日時 2021年3月6日(日)9:25 – 17:30
開催 オンライン(zoom)
共催 日本民俗学会 

報告要旨

9:25 – 9:30   開会
9:30 – 10:00  第1報告 野見山三四郎氏(関西学院大学社会学部)
         「はんざき祭りの創始―岡山県真庭市湯原温泉街の事例―」
          コメント 村上忠喜氏(京都産業大学)
10:05 – 10:35 第2報告 川角幸太氏(京都産業大学文化学部)
         「屋台の構造・造形美と練り方の関係―姫路市の魚吹八幡神社を例に―」
          コメント 橋本 章氏(京都文化博物館)
10:40 – 11:10 第3報告 中嶋彩夏氏(島根県立大学人間文化学部)
         「石見神楽の創作演目に関する研究:石見神楽S神楽社中を事例に」
          コメント 内田忠賢氏(奈良女子大学)
11:10 – 11:20 休憩《10分間》
11:20 – 11:50 第4報告 前田彩希氏(神戸大学国際人間科学部)
         「異なる世界観の間で―現代伯耆地方における占いの集会の事例から―」
          コメント 中野洋平氏(島根県立大学)
11:55 – 12:25 第5報告 Asnani Aishwarya氏(アスナーニ アイシュワリャ/神戸大学国際人間科学部)
         「日本社会における「恥」と「裸体」の関係」
          コメント 樽井由紀氏(奈良女子大学非常勤講師)
12:25 – 13:15 昼食休憩《50分間》
13:15 – 13:45 第6報告 櫻井香乃氏(佛教大学歴史学部)
         「瓜子姫と天邪鬼 構造分析と中世神話の視点から」
          コメント 橋本 章氏(京都文化博物館)
13:45 – 14:15 第7報告 伊藤瑞恵氏(東北大学文学部)
         「羽黒山における開山伝説の歴史的変遷」
          コメント 斎藤英喜氏(佛教大学)
14:20 – 14:50 第8報告 加藤芙美乃氏(立命館大学文学部)
         「京都府和束町における観光地化とその持続性―茶生産地における担い手の多様性に着目して―」
          コメント 村上忠喜氏(京都産業大学)
14:50 – 15:00 休憩《10分間》
15:00 – 15:30 第9報告 安田涼夏氏(関西学院大学社会学部)
         「七夕祭りの創出―大阪府交野市域の事例―」
          コメント 土居 浩氏(ものつくり大学)
15:35 – 16:05 第10報告 武井彩夏氏(ものつくり大学技能工芸学部)
         「さきたま火祭りで使用される産屋の形状の起源と歴史についての基礎的研究」
          コメント 八木 透氏(佛教大学)
16:10 – 16:40 第11報告 的場結衣花氏(佛教大学歴史学部)
         「木地師の信仰と惟喬親王の伝承」
          コメント 木村裕樹氏(立命館大学)
16:45 – 17:15 第12報告 佐々木一成氏(佛教大学歴史学部)
         「白山信仰と真宗民俗―富山県五箇山地域を事例として―」
          コメント 金城ハウプトマン朱美氏(富山県立大学)
17:15 – 17:30 講評・終了

参加方法
・参加希望者は、3月2日(水)23:59までに会員あて告知メールに記載されている申し込みURLから申請して下さい。後日IDとパスワードをお送りします。
・参加者は原則として京都民俗学会会員のみとします。
・オンラインアプリはzoomを使用します。なお参加希望者へのアプリ使用についてのサポートは行いません。

報告要旨

第1報告
野見山三四郎氏(関西学院大学社会学部)
「はんざき祭りの創始―岡山県真庭市湯原温泉街の事例―」

本研究は、岡山県真庭市湯原温泉街をフィールドに実地調査を行なうことで、はんざき祭りの創始、展開を明らかにするものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。
1.湯原温泉街ははんざきにゆかりを持つ土地である。温泉街に流れる旭川ははんざきの最多生息地域だ。また、日本で初めてオオサンショウウオの研究が開始された場所であり、農科大学教授である石川千代松が湯原を訪問している。著書である『はんざき(鯢)調査報告』には湯原地域の土地のことや、湯原のはんざき文化について触れられており、湯原がはんざきの里として認識されるようになった。
2.はんざきの社は作陽誌に書かれている神社の若宮として建てられた。湯原温泉街には国司神社と呼ばれる神社が存在していた。神社の合併により、同じ真庭市にある八幡神宮に国司神社は吸収されてしまって現在は存在していない。はんざき大明神が湯原温泉街に残っているのはその際に吸収されなかったからである。その理由は、はんざき大明神の社地が私有物であったためであると言われている。石川千代松は、湯原に立ち寄った際にはんざき大明神を地域の人々が大切にしていることに感動したらしく、その当時、社地を買い取ったのだという。この行動により、神社が吸収されたのちも若宮のはんざき大明神は湯原温泉街に残っている。
3.はんざき祭りの始まりは1962年に岡山国体山岳競技の閉会式が湯原で開催され、その際地元の若者が選手の方々を喜ばせようと何か企画できないかということで考えられたものが、地元にあったはんざき伝説をもとにしたはんざき祭りだった
4.はんざき祭りの特徴として神仏習合の祭りであることが挙げられる。神事ははんざき大明神に、仏事は三井彦四郎に行われているという理由。元々夏祭りとして行われていた温泉祭りが、薬師寺の祭りであった名残であるという理由も挙げられる。

第2報告
川角幸太氏(京都産業大学文化学部)
「屋台の構造・造形美と練り方の関係―姫路市の魚吹八幡神社を例に―」

大阪湾沿岸から瀬戸内海周辺におよぶ一帯では太鼓台の文化が広がっている。その中でも姫路市を中心とした播州地域では秋季例祭の際、太鼓台の一種である屋台が各地で練り出される。魚吹八幡神社でも氏子集落である各村から18台の屋台が練り出される。屋台は錺金具、彫刻、幕、漆塗りなど意匠をこらしたもので、播州地域の人々の中では、秋の風物詩と意識される。
大阪湾や瀬戸内海沿岸周辺地域の太鼓台では、屋根の部分に巨大な布団を積み上げられたものや、布生地で刺繍が施されたものなどが多い。播州地域では屋根に漆塗りが施された神輿屋根屋台というこの地域独自の屋台が練り出される。この神輿屋根屋台は播州地域一体に広がるが、同じ神輿屋根型屋台でも魚吹八幡神社の位置する播州地域の西部と他の地域では構造や造形美に違いがある。この屋台の構造の違いには屋台の練り方という身体の使い方が影響している。魚吹八幡神社で出される屋台は「チョーサ」という練り方を行う。この「チョーサ」という練り方は、屋台を頭上に差し上げる練り方である。魚吹八幡神社で出される屋台ではこの「チョーサ」という差し上げを美しく見せるための構造、造形美になっている。
播州地域で「チョーサ」という練り方を行うのは、西部に位置する一部の地域のみである。播州地域で数ある祭礼のうち「チョーサ」という珍しい屋台の練り方を行う魚吹八幡神社の秋季祭礼は非常に特異的である。さらに魚吹八幡神社のなかでも同じ「チョーサ」という練り方であっても、村ごとで屋台練りへの意識の違いがある。そのことにより「チョーサ」という練り方がうまい村が生まれている。つまり、魚吹八幡神社の氏子圏内で同じ「チョーサ」という練り方であっても少しずつ差異が生じている。

第3報告 
中嶋彩夏氏(島根県立大学人間文化学部)
「石見神楽の創作演目に関する研究:石見神楽S神楽社中を事例に」

本研究は、島根県浜田市の石見神楽S神楽社中を事例に、石見神楽の創作演目がどのように創作され、受け継がれ、実際に演じられているのか明らかにすることを目的とする。
石見神楽は島根県石見地方を中心に伝承された神楽で、浜田市では石見神楽が盛んに舞われている。明治以降、神職によって演じられていた神楽が村の有志に伝授されてから、石見神楽は変化し続けながら現代まで演じられてきた。紙製の面や豪華絢爛な衣装、提灯蛇胴が考案され、石見神楽を継承する団体に広く受け入れられていった。現代の石見神楽は、その伝統性だけでなく、変化し続ける「創造性」が強いという特徴がある。
創作演目とは、「黒塚」や「恵比寿」といった石見神楽団体に共通する演目ではなく、特定の団体において創作され、その団体のみにおいて演じられるオリジナルの演目を指す。まさに石見神楽の創造性を示すものであり、石見神楽の理解に創作演目は欠かせないが、具体的な研究は少ない。そこで本研究では、浜田市で最も多くの創作演目を保持する団体の一つである、石見神楽S神楽社中の事例を分析した。
考察の結果、石見神楽S神楽社中では、創作演目は神楽に合ったテーマの発見や石見神楽に関わる人との交流の場などをきっかけにして創作されていたことが明らかとなった。創作された演目には、豊かな発想と熱心に活動する団体メンバーが深く関与し、神楽台本の演目にあった演出を進化させながら受け継がれてきた。創作演目を演じることを通して、石見神楽の担い手の個性が発揮され、それが彼ら独自の特色を表すものとして団体へ受け入れられていった。創作演目をはじめ、石見神楽の創造性を考える場合、彼らのような個人の活動に注目する必要があるだろう。

第4報告
前田彩希氏(神戸大学国際人間科学部)
「異なる世界観の間で―現代伯耆地方における占いの集会の事例から―」

本論では、伯耆地方で行われている占いの集会を対象に調査を行い、なぜ占いの他に参加者全員で占師の話を聴くワークショップ「ワーク」という場が設けられ、それが参加者と占師にとって重要であるのか明らかにし、現代地方社会における占いのあり方について考察する。従来の研究では、占いは占師と相談者のやりとりで起こる劇的な世界観の移行によって成り立っているとされてきたが、この占いの集会では、占い「個人セッション」でのそうした世界観の移行が参加者にとって不十分であり、「ワーク」の場が重要性を持っているという特徴が見られる。世界観を成り立たせる知識と人びとそれぞれに注目して「ワーク」の場を分析すると、「ワーク」の場では、科学的世界観、民俗宗教的世界観、フィクション的世界観の知識が共存しながら講話がつくり出され、異なる関与の程度の参加者が共存しながら人びとの相互行為が蓄積されていた。この緩やかな世界とも言える状況の中で人びとは異なる世界観を自然と受け入れ、複数の世界観の間を行き来する。緩やかな世界が生み出される「ワーク」の場があることによって、人びとは懐疑や抵抗を無視した劇的な移行ではなく、個々人の経験や知識の積み重ねによって信仰を生み出す「解釈的漂流」の中で世界観を移行することが可能になっている。この移行が可能になるために、この占いの集会では「ワーク」という場が設けられ、参加者と占師にとって重要になっていると言える。

第5報告
Asnani Aishwarya氏(アスナーニ アイシュワリャ/神戸大学国際人間科学部)
「日本社会における「恥」と「裸体」の関係」

本論文では「日本社会において入浴場に入る際、なぜ「裸体」の状態を「恥」として捉えないのか」という問いの下、議論を展開していきたいと考える。
そのためまず、日本には「裸体」な状態で日々を暮らす日本人が多く存在していたことについて述べ、日本社会における「裸体」の概念及びその捉え方について具体的に述べる。その後、当時の日本の社会において「裸体」という状態に「恥」を覚える人は少なかったことに関する議論を提示し、「裸体」でいることは自然なことであり、当時の日本人は「裸」にいる状態を自分の「顔」の延長線にしか考えてなかったため、それに「恥」をかくことはなかったことを証明する。
しかしそのような日本社会にも、多くの米兵士及び外国人の訪日により、彼らが「裸体」の姿にいる入女に対して持つ違和感及び好奇心の気持ちを抱くことにより、日本社会において「恥」及び「羞恥」の概念が誕生した事例を紹介する。そしてその延長で、当時の日本人は互いに浴室を使用する際に「裸」の状態にある「からだ」を意識せず、互いの間に取る「交流」に焦点を当てていたと仮定するのならば、外国人の到来によりその焦点は「交流」から服をまとわない状態、つまり「裸」の状態に移り、そこで新たに「裸」に対して抱く「性的」な意味をもつ「恥」の概念が存在するようになったことを紹介し、分析をする。
最終的に結論としては、日本社会においては社会的秩序及び社会的地位を守る「恥」の概念と西欧から導入された「裸体」に関する羞恥の感覚を持つ「恥」という二つの概念が同時に存在するようになり、日本社会において二重の「恥」が存在することを述べる。

第6報告
櫻井香乃氏(佛教大学歴史学部)
「瓜子姫と天邪鬼 構造分析と中世神話の視点から」

「瓜子姫」は日本の昔話の一つで、〈小さ子譚〉の形を取っている。〈小さ子譚〉とは、老夫婦の祈願により主人公が脛や指、果実などから生まれる〈異常誕生〉の形を取り、最終的には婚姻により幸福を得る物語となっている。
 通説では、上記で述べた幸福な婚姻は、西日本を中心に広がっている話で、東北地域では瓜子姫は敵によって殺されてしまい、日本の東西で話の顛末が変わっているとされる。
今回、東西の各々の資料として、『御伽草子』の「瓜姫物語」と『日本昔話大成』に記録されている、秋田県平鹿郡の「瓜子姫」を例に取り上げていく。
第一章では、そもそも瓜子姫という昔話や説話がどのような内容なのか、そもそも昔話と物語草子を研究する意味は何なのか、また瓜子姫の先行研究がいかになされて来たか、を述べたうえで、第二章で、関敬吾が『日本昔話大成』で挙げている、瓜子姫の昔話の典型である秋田県平鹿郡の例と、西日本を中心に広がる『御伽草子』「瓜姫物語」の構造分析をし、第三章で、秋田県平鹿郡の例と『御伽草子』「瓜姫物語」の伝承者がどのような存在であったか考えていく。

第7報告
伊藤瑞恵氏(東北大学文学部)
「羽黒山における開山伝説の歴史的変遷」

卒業論文では、羽黒派修験の開山伝説「能除伝説」の歴史的変遷とその背景を論じた。修験道では中世以来多くの場合役行者を祖として信仰し、修験者集団の結束が図られてきた。しかし羽黒派修験は、崇峻天皇の皇子とされる能除(蜂子皇子)を開山とし、役行者よりも古く高貴な始祖像を主張する点で特徴的である。この能除の事績を語る逸話の集合体を本研究では「能除伝説」と称する。
先行研究において、「能除伝説」は全体から特定の逸話を切り取って変化が分析される場合が多く、その成果は分散的であった。そこで、本研究では「能除伝説」を軸として論を構成し、複数の逸話によって成立する物語を巨視的に捉えることで、伝説を語る修験者たちの活動史を再検討した。方法としては、文献比較表の作成による縁起内容の横断的比較、公的な縁起類には含まれない周辺地域の口承の整理、そして補論として絵画における能除の表現への言及を行なった。
結果として、「能除伝説」は十四世紀の文献初出から現在に至るまで、羽黒派の修験者・周辺地域の住民・中央史を語る人々という三者の力学で変動してきたことが判明した。修験者にとって開山伝説はアイデンティティとして機能するが、同時に他山・他派への牽制手段でもあったため、時代に応じてより有利となるような逸話が添加されていった。また、「能除伝説」の語りには、修験者だけでなく地域住民たちも加わった。彼らもまたより古く、より高貴な物語を志向したと考えられ、「能除伝説」と自らの在所を結びつけた伝説を作り出した。さらに、この二つの流れを受けて中央史視点での再編纂が起こる。羽黒派修験の地位を高めるための「天皇の子」という能除の出自は、現代では崇峻天皇一家の悲劇の外伝として羽黒山の外でも語られはじめている。現代における「能除伝説」は、これらの力関係によって都度添加された逸話が連なり、各時代の多様な意図が混在したものとなっている。

第8報告
加藤芙美乃氏(立命館大学文学部)
「京都府和束町における観光地化とその持続性―茶生産地における担い手の多様性に着目して―」

本研究は、京都府和束町を研究対象地域として、観光地化における担い手の多様性、そして観光地としての持続性について考察することを目的とした。
和束町は、鎌倉時代から続く京都府内有数の茶生産地である。しかし、近年では茶の価格の低下と少子高齢化によって産地として課題が生じるようになった。これらの課題解決に向けて和束町では、茶の6次産業化・地域ブランドづくりによる観光産業が創出された。本研究では、和束町活性化センター設立から現在までを第1期(活性化センター設立以降/1988年~)・第2期(有機茶研設立以降/1998年~)・第3期(和束茶カフェ設立・景観資産登録以降/2008年~)・第4期(援農プロジェクト開始以降/2014年~)に区分して考察した。
第1期では、活性化センターの特産品事業によって、茶の6次産業化・地域ブランドづくりが推進されるようになった。第2期では、観光地化を牽引する2つの農家団体(有機茶研・8名と有機茶研によって設立された「ほっこりサークル」・8名)と、6次産業化を推進する主婦団体(恋茶グループ・8名)が設立された。観光地化を牽引するリーダー農家は大規模な耕地面積を所有し、信用力を保持していることが特徴である。さらに、農家団体の活動に外部組織が参入したことで、都市農村交流が推進・持続されるようになったのである。第3期では、町民主体で行われた観光地化、「和束茶カフェ」の開設や景観資産登録によって、観光入込客数は増加した。そして町による対外的なPRも展開され、和束町の知名度は上昇したのである。第4期では、町外の企業やUターン者の参入によって和束茶カフェの事業が充実化された。Uターン者による援農プロジェクトも展開され、都市農村交流が推進された。
つまり、行政組織だけで農村の観光地化を行うのは困難であり、地域内外の住民や外部組織、さらにU・Iターン者など多様な担い手の連携によって推進・持続されているのである。

第9報告
安田涼夏氏(関西学院大学社会学部)
「七夕祭りの創出―大阪府交野市域の事例―」

本論文では星田妙見宮、機物神社、交野市主催の七夕祭りに焦点を当て、七夕伝承がこの交野という地域においてどのように受け入れられ展開しているかについて記述した。ここで明らかになったことは次の通りである。
1. 古くは交野ヶ原と呼ばれた地には渡来人が移り住み養蚕や機織り、道教に由来する北辰信仰が持ち込まれた。
2. 渡来系の血を引く母を持つ桓武天皇が交野の地を何度も訪れたことで交野は広く知られるようになり、遊猟や七夕の和歌が多く詠まれた歴史を持つ。
3. 七夕伝承は中国が発祥とされ大陸を経て日本へと伝播したが、その過程において他のいくつかの物語との融合を見せてきた。
4. 降星伝説のある星田妙見宮は時代の影響を受け一時は衰退したが宮司や地域住民の努力と協力により妙見宮はもとより祭りを復活させることに成功した。
5. 機物神社は「秦者」の人たちを祀る社ということで「ハタモノの社」と呼ばれたが、後に七夕伝承と結び付けられ「秦」を機織りの「機」に換えて現在の機物神社となった。
6. 神社に保管されていた古文書を見ると七夕祭りとあったため、当時例祭であった秋祭りから七夕祭りを例祭に変更された。
7. 近年では数万人が楽しむ機物神社の七夕祭りは氏子や総代に方々の働きによって成り立っている。      
8. 交野市主催の「天の川七夕まつり」は交野が七夕とゆかりのある場所であることを市の移住政策等に活かすため観光振興として発信を始めたことが祭りの契機となった。
9. 祭りのイベント化に対して歴史ある七夕の本質が損なわれるのではないかと当時は住民との間に溝があったが、現在は約2万人弱の人々が訪れるほどの大きな規模の祭りとなった。
10. 交野をPRしていく上で星田妙見宮や機物神社の七夕祭りを広報する場合もあるが、市は政教分離の考え方から神社等との相互支援は特段行わないという立場にある。

第10報告
武井彩夏氏(ものつくり大学技能工芸学部)
「さきたま火祭りで使用される産屋の形状の起源と歴史についての基礎的研究」

本研究では、さきたま火祭りの産屋が現在の形状になった起源と歴史について、関係者への聞き取りと記録映像を含む資料を基に、考察した。
さきたま火祭りは、埼玉県立さきたま古墳公園(行田市)を会場として毎年5月4日に開催され、2021年で第37回となる(ただし2020・21年は、COVID-19の影響で中止)。そのクライマックスでは、「ニニギノ命」と「コノハナサクヤ姫」に扮した演者により産屋に火が放たれ、産屋が炎上する。この演出は、前玉神社の祭神・コノハナサクヤヒメの火中出産神話にならったものである。当初、さきたま古墳とコノハナサクヤヒメに直接の関係がないことを認識した上で、「異論はありますが無理にオワケノオミをくっつけた火祭りにしてしまおうではないかと」(『さきたま火祭り10周年記念誌』内の座談会での、第1回実行委員長の発言)開始された火祭りは、「古代のロマン溢れるお祭り」(行田市ホームページの表現)として広報されている。
産屋を含め、さきたま火祭りの準備は、地元の6地区が役割分担している。担当は年毎に持ち回りで、産屋の製作は基本的に図面に基づいている。しかし年毎の産屋の画像を比較検討すると、年毎に微妙な違いがあることが分かる。そもそもこの産屋は、形状としては復元古代住居に近いが、同一形状のものは確認できない。おそらく部分それぞれが別々に模倣されており、総体としては、さきたま火祭りオリジナルのハイブリッドな仮設物件だと考えられる。年によって微妙な違いがあるのも、偶然性を含め担当地区のオリジナリティが発揮されているとみることができる。

第11報告
的場結衣花氏(佛教大学歴史学部)
「木地師の信仰と惟喬親王の伝承」

滋賀県には、様々な民俗学の礎となるものが数多く残っている。私は長い間滋賀県で暮らしているが、大学に通うようになるまでその事実を知ることは無かった。そんな中、ふと大学の講義で教授の口から「滋賀県は民俗学の宝庫である」という話を耳にした。他の話題のついでに出たものであると記憶しているが、それに私はとても興味をそそられた。その中でも私が一番興味を持った「木地師・木地屋」と呼ばれる人々のことである。木地師は、日本の東近江を発祥とし、ろくろを使用して木の器を作って生活している人々の呼び名である。木地屋の祖は惟喬親王という人物であり、彼が暫くの間滞在し、ろくろを生み出し現地の人々に提供したのが蛭谷であるという逸話が残されている。しかし、惟喬親王に関しては、はっきりとした資料が少なく、歴史が明らかにされていない部分が多い人物である。また、木地屋は惟喬親王に対して独自の宗教理念を形成しており、今では廃れた部分も多いが、口伝にて語り継がれている彼等だけの伝説もある。彼等と惟喬親王の関係性に関して調査を深めれば、新しい惟喬親王の歴史や、民俗信仰について知れるのではないかと考えた。本論文では、主に橋本鉄男氏の文献を中心に木地屋と惟喬親王について理解を深め、また、東近江にあう「木地屋資料館」にも足を運び、現地に伝わる資料などを拝見したうえで、これらを明かしていく。

第12報告
佐々木一成氏(佛教大学歴史学部)
「白山信仰と真宗民俗―富山県五箇山地域を事例として―」

真宗民俗とは従来「神祇不拝」の真宗と民俗は併存しないと考えられていたものを蒲池勢至によって「真宗優勢地帯にみられる門徒の現行民俗」と定義されたものである(蒲池 1993)。本研究ではこの富山県五箇山地域を対象にこの真宗民俗の視点を持ち込み、真宗下で白山信仰をはじめとする民俗がどのように併存しているかについて調査考察を行った。また、真宗の教義や特殊性を中心に捉えられる真宗民俗に地域性を示すことも試みた。
五箇山域内にある人形山は泰澄による開山伝説の残る白山信仰の山であり、この山と上梨地区にある白山宮が五箇山における白山信仰の中心である。五箇山では毎年春に祭りが行われ、獅子舞やこきりこ節が奉納される。そこで祭りの協賛者を紹介する「花よみ」が行われるがその定型文には、膨大な量を示す形容詞として「人形山」が登場する。また、毎年6月には人形山開山行事が実施され、住民らによって集団登山が行われる。フィールドワークで人形山への認識を調査したが、「山と問われれば人形山」という回答が得られるなど、現代においても強い愛着や崇敬の念があることが理解できる。
真宗と白山信仰の併存の要因は崇敬や愛着の他に地理的、質的に医療資源が乏しかったことも背景にあると示した。五箇山は外部との交流が遮断され、医者に運ぶのに丸一日以上かかる地域であり、その結果物流も限定的な地域であった。その環境において人を救うのは施薬、治療法の知識であり、これをもたらす存在は修験者である。一方、真宗においては俗信的な加持祈祷を否定し、苦しみを取り除くために医薬を用いた。この点や強い愛着によって五箇山においては真宗流入以後も白山信仰を廃絶せず、併存した所以であると示した。

備考
・各報告時間は20分間、質疑応答は10分間です
・本報告会は日本民俗学会との共催です