第342回談話会(第9回修士論文報告会)

日時 2021年5月29日(日)15:00 – 17:00
開催 オンライン(zoom)
共催 日本民俗学会 

スケジュール
15:00 – 15:05 趣旨説明
15:05 – 15:50 第1報告 林 紀予氏(佛教大学大学院)
         「国家神道と艦内神社」
          コメント 橋本 章氏(京都文化博物館)
15:50 – 16:00 休憩《10分間》
16:00 – 16:45 第2報告 岡本潔和氏(佛教大学大学院)
         「若狭地方の小正月行事の研究―戸祝い行事を中心に―」
          コメント 村上忠喜氏(京都産業大学)
16:45 – 16:55 講評、閉会

参加方法
・参加希望者は、5月26日(水)23:59までに会員あて告知メールに記載されている申し込みURLから申請して下さい。後日IDとパスワードをお送りします。
・参加者は原則として京都民俗学会会員のみとします。
・オンラインアプリはzoomを使用します。なお参加希望者へのアプリ使用についてのサポートは行いません。

報告要旨

第1報告
林 紀予氏(佛教大学大学院)
「国家神道と艦内神社」

日本海軍の軍艦に安置された神棚や神殿を、艦内神社と称する。本論は、艦内神社が出現した近代日本で、同じく成立した国家神道との関連を見ながら艦内神社の歴史的性格を捉えようとしたものである。
第一章では、艦内神社研究史と国家神道研究史をそれぞれ整理した。艦内神社研究史では、艦内神社は船霊信仰の延長線上、または船霊信仰が基盤であると認識されていることが分かった。しかし、初期の艦内神社は船霊信仰を基盤としていたが、国家神道下に大きく性格を変えていったという指摘もあることから、国家神道の研究史を確認していった。その結果、国家神道研究史で得られた「上から」ではなく「下から」の国家神道の視点と、国家神道の地域での発展という視点を踏まえ、艦内神社研究史では検討されていなかった成立過程や歴史的性格を明らかにすることを、本論の課題とした。
第二章では、まず船霊信仰と艦内神社の概要を述べ、先行研究で言われている両者の関連性について考察し、次に明治期と大正期の艦内神社について、それぞれの時代の艦内神社に関する資料を挙げながら、国家神道の成立過程と共に艦内神社の性格を見ていった。
艦内神社の先行研究で言われている船霊信仰との関連性については、船霊信仰と艦内神社の概要を検討した結果、関連していると言い切ることは難しいと結論付けた。
明治期は国民の中に天皇と結びついた国家観念が育まれ、神社は国家の宗祀であるという論理が国民に受け入れられる基盤となった時代であり、その時代に地域住民や神社から、軍艦に神像等が寄贈された事例があることから、明治期の艦内神社は、地域側からの厚意や国家観念、戦時体制などの意識により、寄贈されたものであることが明らかになった。
大正期は、敬神崇祖の観念が、国民を精神的に統合する中核としての役割を担うことを期待され、日常的な敬神崇祖を国民に定着させることが望まれた時代である。大正期の艦内神社は、地域からの寄贈が定着していき、さらに神宮別大麻を祀った艦が現われる。初めて神宮別大麻を奉斎した艦である戦艦伊勢に関しては艦名に所縁のある伊勢神宮の祭神を祀ったという見方ができるが、それ以降に奉斎した艦は所縁を超えた奉斎となる。これにより国民教化政策が海軍内にも浸透し、国家に集約されていく様子が明らかになった。
第三章では、昭和期に焦点を絞り、艦内神社の性格の変化の様子を、当時の時代背景や国家神道の発展と、神宮神部署発行の『瑞垣』や海軍側の艦内神社に関する資料を見ながら確認した。昭和期は、国民の間に敬神観念が普及・浸透し、伊勢神宮を中心とする国民統合が行われた。昭和期の艦内神社は、地域からの寄贈は定着化し、神宮別大麻を奉斎する艦が増加した。さらに、昭和十五年には、神宮別大麻を艦内に奉斎することが、海軍諸例則で法令として明確に記載された。
以上により、明治期は地域からの寄贈が主であったが、大正期に神宮別大麻を奉斎した艦が現われたことで国家に集約されていき、昭和期には神宮別大麻の奉斎が活発化し、海軍内で法令化されたことが確認できた。これにより、従来の艦内神社研究で検討されていなかった成立過程や歴史的性格を、「国家神道」の歴史的なあり方と繋げつつ明らかにすることができ、本論によって艦内神社研究の新たな視点を提示しえたものと考える。

第2報告
岡本潔和氏(佛教大学大学院)
「若狭地方の小正月行事の研究―戸祝い行事を中心に―」

本研究は、若狭地方の戸祝い行事とこれに影響を与えた行事との関係性を分析することで、小正月行事の構造的変遷の過程を明らかにするものである。若狭地方では三十三の集落で戸祝いが行われている。子供たちが祝い棒を持って各戸を訪れ、祝いの唄を唄い、家人からお菓子などのお礼を受取るというのが基本的な行事の流れであるが、詳しく見ていくとキツネガリなどの他の行事の影響が見られるほか、祝い棒や祝い唄は集落ごとに異なるところも多く、行事の内容はバラエティーに富んでいる。このことから戸祝いは小正月行事の構造的変遷を明らかにできる数少ない行事の一つであると言える。しかし、これまで戸祝いの成り立ちに関する論考は皆無であった。
本論文では、まず第一章において、若狭地方の戸祝い行事の内容を把握し整理するとともに行事の主体や実施方法など基本的な特徴について事例を示し明らかにした。 
つぎに第二章において、戸祝い行事の基本的性格は、全国に見られる小正月の来訪神行事にあることを各地の類似行事との比較を通じて明らかにした。
第三章では戸祝いの変化に影響を与えたと考えられる小正月の行事との関係性を分析した。対象としたのは、粥行事、嫁の尻祝い、どんど、キツネガリの四つの行事である。戸祝いと粥との関係では、粥を混ぜる粥の木に注目し、米に宿る神の呪力が加わった祝い棒を用いることで、豊作祈願の予祝行事として強化が図られたとした。戸祝いと嫁の尻祝いの関係では、戸祝いの唱え文句などに潜む尻祝いの痕跡を明らかにして、両者の習合の可能性を指摘した。戸祝いとどんどの関係では、戸祝いの翌日に行われるどんどにおいて、祝い棒が燃やされるのは、神を送る意味があるとした。戸祝いとキツネガリの関係では、キツネガリの後に戸祝いが行われる連続型、戸祝いを行う中でキツネガリを行う同時型、そして唄の文句が混合した習合型の三つの類型を示し、連続型で行われるキツネガリが本来の姿に近いとした。また若狭のキツネガリは、狐を災厄と捉え、これを追い出そうとするものであることを指摘した。
第四章では戸祝いがどのような変遷を経て現在の形になったのかを明らかにした。除災の傾向が強かった「戸祝いの原型」に嫁の尻祝いが加わり予祝行事への転換が起り、子供の参加や門付け芸能の影響を受けて娯楽性が強まった。さらに自然災害や疫病などの災厄を取り除きたいというムラ社会の要請によって、キツネガリとの関係が深まることで改めて除災的要素が加わった。また戸祝いの変化の要因として、形態的要因、社会的要因、伝播的要因を明らかにした。形態的要因では、戸祝いの唄と祝い棒について検討し、社会的要因では、ムラ社会の要請と子供の役割を中心に検討した。伝播的要因では、南から若狭に入った戸祝いと西から入ったキツネガリとの関係が生じ、西から東の濃淡のある変化が生じたとした。
以上により戸祝いの構造的変遷の過程を明らかにすることができた。本論文においては、若狭地方の戸祝いという限られた行事の検討に留まったが、小正月行事の構造的特徴や変遷のあり様を普遍的に明らかにするためには、さらに多くの事例を検討する必要がある。戸祝いに対する小正月以外の行事の影響、大黒舞をはじめとする門付け芸の影響、寺院や宗教の影響については今後の課題としたい。年中行事の変遷の過程を明らかにすることは、変化の生じた各時代における人々の招福や除災といった願いを知ることに他ならない。そのためにはひとつひとつの行事をあらゆる角度から丁寧に分析し、その構造に迫っていく作業が不可欠であると考えている。