第350回談話会(第14回卒業論文報告会)

日時 2023年3月4日(土)9:25〜17:30
開催 京都産業大学むすびわざ館3A教室/オンライン(zoom)
共催 日本民俗学会

参加について
・原則として京都民俗学会会員、日本民俗学会会員および報告者のご関係者に限ります。
・【リアル参加】会場に直接お越しください。参加登録は不要、参加費無料です。
・【オンライン参加】3月1日(水)23:59までに会員宛てメールに記載されたエントリーフォームから申請してください。

タイムテーブル

9:25-9:30開会
9:30-10:00第1報告竹田圭乃氏(滋賀県立大学人間文化学部)「巨椋池干拓地における生き物供養の変遷」
10:05-10:35第2報告小林すみれ氏(滋賀県立大学人間文化学部)「近現代における村落空間の変遷―滋賀県東近江市尻無を中心としてー」
10:40-11:10第3報告古谷 涼氏(京都先端科学大学人文学部)「剣鉾差しの技と身体―京鉾の参与観察をもとにして―」
11:20-11:50第4報告岩井明日香氏(立命館大学文学部)「昭和期を中心とした柴又帝釈天における信仰の空間的展開について―寄進物・講集団からの信仰圏の分析―」
11:55-12:25第5報告酒井美帆氏(立命館大学文学部)「民俗学者・柳田國男をめぐる観光資源化とその多様性―生誕地・兵庫県福崎町における新しいコンテンツツーリズムの展開―」
13:15-13:45第6報告畑 真姫氏(佛教大学歴史学部)「民間陰陽師と安倍晴明伝説―狐信仰の関係性―」
13:45-14:15第7報告船川湖都莉氏(島根県立大学人間文化学部)「コロナ禍における就職活動のヴァナキュラー―23卒生の身だしなみに注目して
14:20-14:50第8報告上野陽南氏(関西学院大学社会学部)「かむろ大師信仰の消長 ―和歌山県橋本市における祈祷系寺院の事例―」
15:00-15:30第9報告坂本莉子氏(関西学院大学社会学部)「泥松稲荷信仰の消長 ―霊能者の動向を中心に―」
15:35-16:05第10報告竹吉 鈴氏(高崎経済大学地域政策学部)「佐野橋が持つ文化的意味と「橋観」―「佐野の船橋」はどう「再現」されているのか―」
16:10-16:40第11報告竹内 実氏(ものつくり大学技能工芸学部)「コロナ禍における伝統芸能の継承―行田市・長野ささら獅子舞保存会の活動を事例に―」
16:45-17:15第12報告山村早輝氏(天理大学文学部)「大和高原地域における正月行事と年神観の変容―奈良市田原地区を中心に―」
17:15-17:30講評・終了

報告要旨

第1報告 竹田圭乃氏(滋賀県立大学人間文化学部)「巨椋池干拓地における生き物供養の変遷」
本研究では生き物供養の変遷について、京都府久世郡久御山町東一口に位置する大池神社の事例を中心に調査を実施した。
かつて京都府南部には巨椋池(大池)と呼ばれる巨大な池が存在し、沿岸では漁業が盛んに営まれた。しかし干拓が実施された結果、池は昭和16年に姿を消す。これを機に巨椋池漁業は廃絶したが、干拓に際して大池水産会の主導で、巨椋池漁業において中心的な役割を担ってきた集落である東一口に大池神社が建てられた。ここでは巨椋池に棲息した生き物の霊魂が祀られ、年に2回例祭が執り行われている。
この事例の特徴として、生き物の供養を干拓以前からある既存の寺社でおこなうのではなく、新しく神社を建立してそこに祀った点が挙げられる。東一口には漁業従事者らの信仰が篤かった安養寺があり、盆には「羽毛鱗甲魚貝虫」を追善菩提する卒塔婆が建てられ施餓鬼法会が営まれてきた。にもかかわらず人々は新たに生き物を祀る神社を建立したのである。安養寺の施餓鬼法会が干拓後も継続しておこなわれていることを考えると、神社建立の動機が、ただ単に生き物を祀りたかったということだけではないことがわかる。すなわち大池水産会は、大池神社を建立することで漁業廃絶後も巨椋池漁業の記憶を残しておきたかったという事だろう。しかし、漁業に従事していた人々が亡くなり世代交代が進むと、こうした意味合いは忘れ去られた。現在では、大池神社は単に供養のために建てられたと理解され、そのように語られている。
先行研究において生き物、特に水棲生物の供養習俗の動機を語る際、感謝や祟りへの畏怖といった定型句に縛られがちであったと考える。しかし大池神社の事例より、世代を経るにつれ当初の記憶が薄れる点や、固定的な言説に収斂していくことがわかった。今後は生き物供養習俗の研究を進める際には、習俗自体の意味合いも時代により変化していく点に着目する必要があると考える。

第2報告 小林すみれ氏(滋賀県立大学人間文化学部)「近現代における村落空間の変遷―滋賀県東近江市尻無を中心としてー」
本研究の目的は、明治から現代にかけての日本農村の、村落空間の変遷の傾向とその要因を、分析の枠組みを用いて明らかにすることである。
村落空間を住民の意識が投影されたものと捉え、空間分析から住民の意識を読み解こうとする試みは「村落空間論」と呼ばれ、民俗学やその隣接分野によって研究が進められてきた。従来の村落空間論には、村落の空間構成や村人の空間認識は伝統的で固定的なものであるという前提が存在する。しかし実際の村落空間は常に様々な要因によって変化している動的な存在であり、村落空間論においてもその変遷を論じる必要がある。本研究はこの課題を指摘し、変動性の視点から村落空間をとらえなおすものである。
フィールドには、民俗学の代表的なフィールドである旧八日市市域に属する滋賀県東近江市尻無を設定した。本研究では、住民への聞き取り調査・自治会所蔵の古文書調査・行政文書などの文献調査を行って得られたデータを元に明治から現代にかけての村落の空間を模式図として復元し、市川の提唱する機能空間、社会空間、認識空間という枠組みを利用して分析を行った。  分析の結果、村落空間の変遷について①ムラの拡大と分化②ヤマに対する機能と意識の低下の二つの傾向が明らかになった。明治には生業的、社会的に単一性を持っていたムラが、昭和40年代を契機にムラの拡大と生業的、社会的な分裂が起こった。また、明治には生活上を営む上で必要不可欠な土地だったヤマが、同じく昭和40年代を契機に土地利用が激減し、住民の認識上においても重要視されなくなった。また、その背景にはどちらの傾向においても、昭和40年代から始まる高度経済成長による生活様式の変化が存在することを指摘した。

第3報告 古谷 涼氏(京都先端科学大学人文学部)「剣鉾差しの技と身体―京鉾の参与観察をもとにして―」
本研究は、京都府京都市左京区の剣鉾差しを事例として、鉾差しの練習過程の参与観察を行い、現在の民俗芸能の担い手たちにおける技の習得過程の特徴を考察することを目的とする。
剣鉾とは、元来は御霊信仰における呪具であり、高く掲げられた鉾先の剣が前後にしなって輝くことで周囲の悪霊を集め浄める役割を持つ(植木行宣「はじめに」、京都の民俗文化総合活性化プロジェクト実行委員会編・発行『京都 剣鉾のまつり調査報告書一 論説編』2014年)。
本研究で対象とした「東山系(京鉾)」の鉾差したちは、八大神社や石座神社をはじめとした左京区の神社で練習を行っている。筆者は2021年11月から2022年11月にかけて継続的に練習に参加し、鉾差したちの練習の過程や技の特徴に関する調査を行った。
考察の結果、以下のことが明らかになった。ひとつは、鉾差したちはつねに集団で練習を行いながら、お互いの技の評価と身体感覚に基づいたアドバイスを重ねていることである。たとえば剣鉾を差す前に、準備運動でもある「足の練習」を行うが、その足のステップは、右足を踏み出しながら左足を軸にして腰を落とし、左足で蹴り上げて前に進むという独特なものである。このステップは剣鉾差しの動作の基礎であるため、個人の癖がつかないように、周りの人が指導しながら集団で練習をする必要があるという。  また練習の場では、自分が鉾を差すより他のメンバーが差している様子を見ている時間帯が非常に長く、これも相互評価が活発に交わされる理由のひとつになっている。たとえば鉾を差すとき、彼らは腰をコトンと真下に落とし、まねきを大きく振りながら鈴を八の字を描くように左右に揺らして、一定のリズムで鳴らすことを目指している。これはある程度熟練した鉾差しどうしがもつ一種の美意識であり、かれら鉾差しの練習過程を支える目標として共有されているのである。

第4報告 岩井明日香氏(立命館大学文学部)「昭和期を中心とした柴又帝釈天における信仰の空間的展開について―寄進物・講集団からの信仰圏の分析―」
本研究では、東京都葛飾区柴又における帝釈天題経寺の信仰圏と、その変化を明らかにした。方法として、手洗鉢や玉垣などの寄進物に刻まれた個人・法人名や、その居住・所在地から分析を行なった。
1629(寛永6)年に開創された日蓮宗寺院に属する帝釈天題経寺は、近世から多くの信仰を集めてきた。門前には参拝者を対象とする店舗が建ち並び、東方を流れる江戸川で獲られた川魚料理が提供された。1849・1850(嘉永2・3)年に建造された帝釈天皇安置の碑には、41名の寄進者名が刻まれている。なかでも、浅草の歌舞伎役者や吉原の遊郭関係者、そして近接する奥州街道の宿場・千住からの寄進が多かった。
近代になると、京成電鉄をはじめとする交通網の発達にともなう参拝者の増加により、信仰圏も拡大した。1967(昭和42)年に寄進された手水舎には、同じ宗派の中山法華経寺のある千葉県市川市から約半数の18人の記名があった。一方、葛飾区や墨田区など東京都東部からの寄進者も、ほぼ同数の17人が数えられた。さらに、1970(昭和45)年に寄進された洗手鉢では、171名の寄進者が確認された。興味深いのは足立区千住にある東京魚河岸講からの寄進であり、足立市場における水産業者による寄進が行なわれていた。これは、門前町で供される川魚を扱う関係によるものであろう。  1975(昭和50)年には大規模な改修工事が行なわれ、玉垣(204基)が建造された。寄進者は、江東区や台東区などの製造業を中心とした企業(32%)、葛飾区(35%)・中央区(6%)を中心とした東京都東部の信者であった。さらに、山梨県南巨摩郡・見延山総本山や茨城県波崎町・波崎帝釈協会などの日蓮宗寺院などによる局地的な信仰がみられた。そして、1980(昭和55)年にも、玉垣(716基)が寄進された。内訳は葛飾区(31%)・足立区(9%)・中央区(2%)となっており、以前にはなかった三鷹市(0.4%)や武蔵野市(0.1%)など、東京都西部へ信仰圏が拡大した。

第5報告 酒井美帆氏(立命館大学文学部)「民俗学者・柳田國男をめぐる観光資源化とその多様性―生誕地・兵庫県福崎町における新しいコンテンツツーリズムの展開―」
本研究は、兵庫県福崎町における民俗文化である妖怪を対象とした新しいコンテンツツーリズムの展開と、それに関わる担い手に関する研究である。柳田國男の生誕地である福崎町では、1975年における記念館の設立をはじめ、柳田を活用した観光資源化が行われてきた。しかし、それは長く続かず、観光入込客数は減少した。そこで福崎町では、柳田作品に登場する妖怪をコンテンツとした地域振興が進められてきた。本研究では、1975年から現在までを3期に区分して考察した。
第1期では、柳田國男生誕100年にあたる1975年に、福崎町に財団法人柳田國男・松岡家顕彰会記念館が設立された。「柳田國男ゆかりサミット」を通して、福崎町は岩手県遠野市や宮崎県椎葉村など、作品の舞台になった他地域との交流を深めた。しかしながら、財政的に顕彰会の活動が困難になり、持続性は生まれなかった。
第2期では、生家に近接する辻川山公園に、2013年に柳田の著作を参考にデザインした2体の河童像が設置された。この事業は、造形作家としても活動していた地域振興課職員が中心となり進められた。その後、2014年から「全国妖怪造形コンテスト」の開催により、同公園に優秀作品の大型モデルが設置された。これにより観光客数が増加し、行政は柳田作品を基盤にした妖怪の「イメージ」を観光資源化に取り入れ始めたのである。
第3期では、2017年に妖怪の像と一緒に座ることのできる「妖怪ベンチ」の設置が始まった。当初、JR福崎駅と辻川山公園に置かれた妖怪ベンチは、観光客の増加により台数が増え、設置場所の範囲は拡大した。車で訪れる観光客の多いインターチェンジ付近の飲食店や、郊外の大学などの公共施設、さらに福崎町外からの転入者による設置希望も増加した。これまで関わりのなかった住民や企業が、観光事業に参加するようになったのである。  さらに2019年からは、柳田にゆかりのある歴史的建物の活用が進められた。この事業の中心となったのは、まちづくり会社・PAGEである。旧辻川郵便局と柳田が幼少期を過ごした三木家住宅が宿泊施設として改修された。後者の改修により併設されたレストランを筆頭に、古民家カフェ・レトランが増加した。それらの多くは、妖怪ベンチよりもさらに郊外に位置している。このように、福崎町の行政や住民だけではなく、柳田の観光資源化は外部からの参加・協力によって発展した。民俗文化のコンテンツ化では、さまざまな人が民俗文化の担い手となることが明らかになった。

第6報告 畑 真姫氏(佛教大学歴史学部)「民間陰陽師と安倍晴明伝説―狐信仰の関係性―」
平安時代に活躍した陰陽師の代表格「安倍晴明」。晴明には「陰陽寮」に所属する一役人の域には収まらない、超人的な呪術の力を駆使した伝承が数多く残されている。
その数多の伝承の内、ひときわ異彩を放つのが、晴明の母親が「狐」であるという「葛葉伝説」の存在だ。
超人的な呪術の力を駆使した伝承は、晴明の子孫・土御門家や賀茂家、そしてその門流の上級(宮廷)陰陽師らが、先祖の誇るべき力を称え、伝承したことが主流となっている。しかし、「葛葉伝説」は宮廷陰陽師らではなく、安倍家とは関係のない、下級(民間)陰陽師らが晴明の死後に晴明に畏敬の念を込めて伝承させたのだ。
ではなぜ民間陰陽師らは「葛葉伝説」を生み出し、各地にこの伝承を拡散させるに至ったのだろうか。その理由や背景は何だろうか。 本稿では1章に民間陰陽師の誕生の経緯と変遷、安倍晴明の正体と伝説について明らかにする。2章では異類婚姻譚に含まれる狐女房譚と葛葉伝説を比較し、葛葉伝説が伝わる信太の森について述べる。3章に信太の森が位置する信太の周辺地域と、信太の地域にあり葛葉伝説を残す聖神社・葛葉稲荷神社それぞれの歴史を探り、民間陰陽師が葛葉伝説を拡散させた背景を考察する。加えて、民間陰陽師と狐信仰の関係性の有無について考察する。

第7報告 船川湖都莉氏(島根県立大学人間文化学部)「コロナ禍における就職活動のヴァナキュラー―23卒生の身だしなみに注目して
研究は、大学生が就職活動中に行う「身だしなみ」に関する実践を対象とし、聞き取り調査で得られた資料をもとに、その実態を考察した。就職活動に臨む大学生は、否応なしに「就職活動に適切とされる身だしなみ」を求められる。「就職活動に適切とされる身だしなみ」という情報は、大学生を取り巻く外部から数多く発信されているものであり、服装やメイクなど多様で複合的な要素を含み、加えて新型コロナウイルスが流行し就職活動がオンライン化したこともあって現在進行系で変化し続けている。大学生たちはそれらを受け止め実践するのだが、その過程には個々人の判断や解釈、志向などが介在し、実践の表出は必ずしも一様ではない。本研究では、これらの実践を現代民俗学の分野で用いられている「ヴァナキュラー」という概念を用いて捉えてみた。島村恭則氏によれば、ヴァナキュラーとは「啓蒙主義的合理性では必ずしも割り切ることの出来ない、あるいは覇権主義や普遍主義・主流的・中心的思考とは相いれない意識・感情・感覚をそこに見出すことが出来る」(1)経験、知識、表現を指すという。聞き取り調査の結果、大学生たちの実践には、外部から発信された「就職活動に適切な身だしなみ」という主流的な「正解」や「他人からの印象」、「実用性」という合理主義的な部分を選択する部分もあったが、同時に「自分らしさ」という主流的とは言えない感覚も見出すことができた。また、「正解」も個々によって異なった感覚的なものだということが実態から分かった。学生は否応なく就職活動のオンライン化にぶつかる中で、外部からの情報の影響を受けながらも100%染まるのではなく、取り入れたり、反発したりしながら生きており、個々が自らの新しいスタンダードに相応しい身だしなみを戸惑い悩みながら模索していたことが明らかとなった。 (1)島村恭則[ほか](2019)『文化人類学と現代民俗学』株式会社風響社,p66

第8報告 上野陽南氏(関西学院大学社会学部)「かむろ大師信仰の消長 ―和歌山県橋本市における祈祷系寺院の事例―」
本研究は、和歌山県橋本市に存在する祈祷系寺院「かむろ大師」を事例とし、実地調査を行うことで、新宗教における信仰組織構築の変遷を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。
1.かむろ大師は、1910年(明治43年)に開創した真言宗系単立宗教寺院であり、独自の「水加持」と呼ばれる祈祷法を行っている。この祈祷法は、開祖である尊海によって編み出された祈祷法が元になっており、参拝者の頭上に霧状の水をかけて祈祷を行う。
2.開祖の尊海は、1892年(明治25年)3月26日に農家の長男として誕生する。幼いころから信仰が篤いことで知られており、18歳の時に同じ村に住む村人から祈祷の依頼をされ、祈祷が成功したことがきっかけとなり、祈祷師として「かむろ大師」を開創する。独自の祈祷による利益と、親しみやすい説法、教義に基づいて尊海自身によって詠まれた「道歌」という歌によって全国各地に多くの信者を獲得し、1981年(昭和56年)7月7日に90歳で亡くなった。
3.尊海の没後、かむろ大師では宗教法人化が行われた。また、尊海の晩年期から没後約20年の間に、「奥の院」と「新本堂」の建立がされ、聖地の整備が進んだ。
4.かむろ大師は、関西全域に在住の信者が多いことが特徴的である。かむろ大師の信者により構成された「支部」と呼ばれる団体が、講のような役割を果たしていた。支部は霊能力者や超自然的な力を持つ人々が先達のようになり、支部長として支部を管理し、団体参拝の際に引率を行ったり、各地での祈祷を行うなどの役割を果たしていた。現在、支部長や構成員の高齢化により、支部はほとんど機能していない。
5.現在の信者は高齢化が進んでおり、50代~70代の信者が最も多い。また、学文路が学問の聖地として有名なことから、学業祈願に訪れる若い世代の参拝客もいる。道歌は現堂主の説法でも引用され、尊海没後の現在も信者に親しまれている。

第9報告 坂本莉子氏(関西学院大学社会学部)「泥松稲荷信仰の消長 ―霊能者の動向を中心に―」
本研究は、京都府八幡市に存在する泥松稲荷神社をフィールドに実地調査を行うことで、泥松稲荷神社と霊能者の関係を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。
1.泥松稲荷神社は、兵庫県尼崎市出身の「庵主さん」という人物が、人間に対してよくいたずらをすることで知られている狸の「どろ松」の看病を行い、ともに修行を行ったことで、どろ松の死後は神がかりによって占いが当たるようになり、信仰を集めた神社である。
2.かつては尼崎や大阪出身の信者が多く、祭壇の幕や、どろ松稲荷社ののぼり、提灯の多くは尼崎や大阪から寄贈されている。その後、阪神淡路大震災の影響で尼崎からの信者が途絶え、現在は尼崎や大阪からの参拝者はほとんど存在しない。
3.どろ松には子供である狸の久松が存在し、久松稲荷として泥松稲荷神社のなかでともに祀られている。久松を守護神として信仰していた守屋たけという女性は大阪市城東区蒲生2丁目に蒲生教会を持つ、霊力を持った女性であった。
4.現在、久松稲荷を管理している井上智俊という女性もどろ松の降霊を行うことが出来る。どろ松の霊が入った際には単語を呟くことがあるが、自身ではその内容を覚えていない。
5.泥松稲荷神社には、庵主さん、おタカさん、守屋たけ、井上智俊という4名の霊能者が存在し、どろ松の降霊や占い、予言を行うことが出来た。

第10報告 竹吉 鈴氏(高崎経済大学地域政策学部)「佐野橋が持つ文化的意味と「橋観」―「佐野の船橋」はどう「再現」されているのか―」
本論文は、群馬県高崎市の「佐野橋」と、同所に残る「佐野の船橋」伝説の関係性について調査し、佐野橋の今後の在り方とその可能性について考察したものである。佐野橋は烏川にかかる人道橋、流れ橋であり、「佐野の船橋」伝説は、万葉集をはじめとする多くの文化・芸術的作品等に取り上げられ、万葉の時代より佐野の地を全国的に知らしめてきた。しかし、現在、佐野橋や「佐野の船橋」伝説は知る人ぞ知る存在となり、佐野橋は取り壊しの可能性さえある。歴史を掘り下げ、佐野橋という一つの文化的資源の可能性を明らかにする点に本論文の意義を有する。
本論文では、はじめに佐野橋及び「佐野の船橋」伝説の概要をまとめ、古典作品における「佐野の船橋」について論じる。そして名所「佐野の船橋」の歴史を辿り、本伝説の存在が現在の佐野橋の「橋観」にどう表れているのか、つまり橋が人々にとってどのような存在として捉えられているのかを明らかにした。先行研究が少ないため、地図や複数の著書の分析、高崎市や寺院へのインタビュー調査等から自らの意見を形成することがメインとなった。調査の結果、佐野橋を管理する高崎市と地域住民の双方の意識において、佐野橋は現在文化的な意味をほぼ有しておらず、あくまで交通手段としての認識がほとんどであるということが分かった。しかし、佐野橋は、古くは名所として知られた「佐野の船橋」を想起させるものであり、景観の面においても価値を有するものであると考える。よって、文化的資源として戦略的に活かし、残していく必要があると考えた。論文の後半では、佐野橋の文化的資源としての可能性や今後について、高崎市の取り組みや他地域の事例をもとに論じた。佐野橋の歴史的価値、文化的価値が十分に認められると論じられたことは本研究の成果ともいえるだろう。また、このような文化的資源としての佐野橋の活用方法を考えていくことが、今後の課題である。

第11報告 竹内 実氏(ものつくり大学技能工芸学部)「コロナ禍における伝統芸能の継承―行田市・長野ささら獅子舞保存会の活動を事例に―」
本研究では、埼玉県行田市の長野ささら獅子舞を対象に、その保存会がコロナ禍においてどのように活動したかについて、参与観察とインタビューに基づいて明らかにした。長野ささら獅子舞は、いわゆる一人立ちの三匹獅子舞で、行田市の指定無形民俗文化財であり、長野地区の鎮守社である久伊豆神社での秋の大祭で奉納される。保存会の一員である本学学生課職員の紹介で、保存会の練習・本番への参加と、会員へインタビューする機会を得た。
インタビューからは、コロナ禍に翻弄された様子がうかがえた。2020年2月までは、会員の親睦も兼ね月一回は練習していたが、3月に練習を中止、その後も中止を余儀なくされた。同年六月下旬に、保存会も所属する奉賛会で、祭礼関連の全面中止が決まった。その年の保存会の活動は、行田市からの補助金による道具類の手入れと買い替えであった。2021年6月もまた中止となった。同年の活動は、新調した幟旗のお披露目で集まったのみであった。
コロナ禍が少し落ち着いたかにみえた2022年の4月下旬に保存会で集まった時、会員間で再開が合意されたので、翌5月下旬に久々の練習会を催した。例年では7月下旬から8月いっぱい本番に向け週一回の練習だったが、今年は5・6・7月それぞれ月一回、そして8月は週一回の練習に取り組んだ。本番は、例年ならば二日間で三演目のところを、今年は一日のみ二演目に縮小しての開催となった。  地区の集会所で行われる練習会では、狭い空間の中で、初心者と熟練者あるいは笛方などそれぞれの立場を按配した配置で練習に取り組んでいた。通しの稽古になったのは八月に入ってからで、それまでは久々の再開だったため、一番の基本演目『笹掛り』を中心に、それも基本の舞いとなる演目冒頭部分を、思い出しながら繰り返し練習していた。発表者も、実際に舞いを教わりつつ観察し、本番当日も『笹掛り』の中獅子を担うことになった。

第12報告 山村早輝氏(天理大学文学部)「大和高原地域における正月行事と年神観の変容―奈良市田原地区を中心に―」
本論文の目的は、奈良県北東部に位置する大和高原地域の正月行事を事例に、正月を迎える準備から正月が終わるまでの習俗に注目し、正月行事における年神観の変容を明らかにすることである。
年神とは元旦に新年の幸せを家々にもたらす神様である。正月様や歳徳神とも呼ばれ、年神を迎えて祝うために様々な習俗や行事が存在し、年神と正月の関係性は深い。そこで本論文では、まず民俗学における年神研究を整理した。次に、奈良市針ヶ別所町と奈良市田原地区を対象に、自治体史や報告書のデータ、現地での聞き取り調査から大和高原地域の正月行事の実態を整理した。さらに、『奈良市史 民俗編』(1968年)において正月に関する事例が豊富な奈良市田原地区において、年末から正月にかけて行う行事と人々の年神観がどのように変容しているのかを考察した。
大和高原地域の正月行事と年神観の変容について、奈良市田原地区を中心に検討した結果、人々の年神観は、時代の経過に伴う個人のライフスタイルの変化や、人口減少・少子高齢化等による正月行事の変化に伴って、現在では明確な性格を問わない福神的性格の強い神様として意識されていることが明らかになった。  しかしながら、正月行事は家単位で行われる行事が多く、同じ行事をしていても家によって日にちや担い手、供物などに違いが見られ、大和高原全域に同様のことが見出せるかは、さらなる調査や検討が必要である。