第359回談話会(第15回卒業論文報告会)

日時 2024年3月2日(土)10:00〜17:10
開催 佛教大学紫野キャンパス 1号館415教室
共催 日本民俗学会

タイムテーブル

時刻内容発表者・報告タイトル座長・コメント
10:00〜10:05開会
10:05〜10:35第1報告山本一稀氏(佛教大学歴史学部)「天神祭をめぐる一考察-鳳講と玉神輿講を事例に-」橋本 章氏(京都文化博物館)
10:40〜11:10第2報告福田穂佳氏(滋賀県立大学人間文化学部)「祭りにおける「余興囃子」の意義-水口曳山囃子を中心として-」橋本 章氏(京都文化博物館)
11:15〜11:45第3報告沼尻真吾氏(佛教大学歴史学部)「丙午俗信が社会に与える影響」後藤晴子氏(大谷大学)
11:50〜12:20第4報告鷹尾伏なるみ氏(奈良女子大学文学部)「大衆演劇論-大衆演劇の30年後を考える-」後藤晴子氏(大谷大学)
13:20〜13:50第5報告平沢英一氏(ものつくり大学技能工芸学部)「河川敷野球場の立地に関する基礎的研究:千葉県市川市を事例に」(オンライン報告)三隅貴史氏(関西学院大学)
13:55〜14:25第6報告三浦太朗氏(天理大学文学部)「太鼓神輿の巡幸再開に見る祭りの意義-大阪府吹田市・山田伊射奈岐神社の事例を中心に-三隅貴史氏(関西学院大学)
14:30〜15:00第7報告谷 梓氏(島根県立大学人間文化学部)「ナギワタの作成と使用に関する研究-箱メガネ普及以前の見突き漁における海中観察-」東城義則氏(立命館大学)
15:05〜15:35第8報告北野新太氏(京都産業大学文化学部)「町家に暮らす建築士の町家改修」東城義則氏(立命館大学)
15:40〜16:10第9報告江良みゆき氏(京都外国語大学国際貢献学部)「生活文化からみた林業従事者の森林観-京北地域を中心とする林業地帯の事例から-」村上忠喜氏(京都産業大学)
16:15〜16:45第10報告大家明都氏(佛教大学歴史学部)「カラスに対するイメージ変遷-古代から現代にかけて-」村上忠喜氏(京都産業大学)
16:50〜17:10講評・終了

参加方法
会場に直接お越しください。参加登録は不要です。非会員の方は受付で参加費300円を頂戴いたします。

報告要旨

第1報告 山本一稀氏(佛教大学歴史学部)
「天神祭をめぐる一考察-鳳講と玉神輿講を事例に-」

この論文では、大阪府にある、大阪天満宮の祭りでもある天神祭を行う上で、講社と呼ばれている運営を担う組織が存在し、その講社がどのような歴史を経て、現在まで存続しているのか。また、コロナ禍を経験した上で、現在における課題とはどういったものなのかを明らかにしていく。
天神祭は、6月下旬吉日から7月25日まで行われる祭りである。メインとなるのが、7月24日の宵宮と7月25日の本宮であり、鉾流神事や陸渡御、船渡御、奉納花火などが行われる。これらの神事には、講社が支えており、特に陸渡御と船渡御では、それぞれの講社に役割が与えられ、運営している。古くから存在している講社もあれば、近代・現代に結成された講社も存在し、それぞれ講社の形は多種多様である。その中でも、神輿を担ぐ組織である鳳講と玉神輿講に注目した。元々、この2講は1つの講社であり、2つの神輿を管理していた。ただ、2基の管理が困難となり、現在の形に至る。鳳講は菅南連合会で構成されており、鳳神輿を管理している。玉神輿講は大阪市中央卸売市場で構成されており、玉神輿を管理している。元々、鳳神輿には祭神である菅原道真公が、玉神輿には道真公の師でもあった法性坊尊意という僧の神様が祀られていたが、明治の廃仏毀釈の影響により、道真公は新たに設置した御鳳輦に移し、鳳神輿には野見宿禰が、玉神輿には手力男命が祀られるようになった。
2講は第二次大戦や石油危機を乗り越えてきたが、2020年の新型コロナの流行により、2020年と2021年は天神祭が中止となり、2022年は陸渡御のみの開催となった。2023年においては、従来の形で行われたが、コロナ禍の影響でつながりが途絶え、コロナ禍前に比べて人手不足が目立った。また、少子高齢化の影響も大きくなっていくため、これらの問題にどう対策していくのかが今後の課題となっている。

第2報告 福田穂佳氏(滋賀県立大学人間文化学部)
「祭りにおける「余興囃子」の意義-水口曳山囃子を中心として-」

本研究では、祭りの公式な神事の進行とは関係の無い場面で自由に演奏される囃子を「余興囃子」と定義し、余興囃子の演奏が祭りの担い手でもある囃子の演奏者に与える影響を明らかにすることを目的として、その意義を明らかにした。研究には、滋賀県甲賀市水口町で行われる水口曳山祭りで演奏される囃子の中のサクラバヤシという曲を中心の例に取り上げ、演奏者への聞き取り調査、囃子練習や本祭での囃子演奏の観察、楽譜化による曲の比較を行った。
聞き取り調査によると、この祭りにおいて囃子の演奏を担当している17の旧町のうち、サクラバヤシを継承しているのは5町であり、主に神事の進行とは関係の無い場面で他の主要な囃子に挟んで演奏される。また、演奏に正確さが求められないことなどから、サクラバヤシは人々が内輪で演奏して楽しむための曲だといえる。先行研究によると、水口曳山囃子はその成立から、隣接する日野町で演奏される日野曳山囃子と相互に関係を持ってきたが、日野曳山囃子にもサクラバヤシと呼ばれる曲があり、その旋律は水口曳山囃子のものとほぼ共通している。日野曳山祭りにおいては、囃子の演奏を担当している町の多くが演奏する定番曲である。以上から、サクラバヤシはある時期に日野から水口に伝播し、神事の進行とは関係のない場面で演奏されるようになったと考える。そして、水口においてその演奏をより楽しむために、掛け声が入れられたり、演奏速度に変化がつけられたりといった独自の変化を遂げて余興囃子として成立したと考えられる。
余興囃子には、曲の長さが短いことや掛け声が入ることなど6点の音楽的特色があるといえる。これらの特色は、曲を習得しやすいことや演奏を楽しめることに繋がっている。最後に、余興囃子の意義は、人々を楽しませること、それによって祭りに対する人々の気持ちを盛り上げること、そして同じ気持ちを持った町の人々の結束力を高めることにある。

第3報告 沼尻真吾氏(佛教大学歴史学部)
「丙午俗信が社会に与える影響」
本論文では、丙午俗信の影響により昭和41年の出生数が大幅に減少してしまった原因と、2026年の丙午年には再び俗信が社会に影響を及ぼすのか考察していく。
丙午俗信は干支のひとつである丙午に陰陽五行説が結びついて誕生した俗信である。丙と午どちらもが火に属している為、よくないとされ丙午の年は火災が多いとされてきた。17世紀後半、八百屋お七事件が起きた後から丙午俗信は丙午の年に生まれた女性は気性が荒く、夫を喰い殺すといった意味が含まれていく。この俗信の影響により17世紀後半以降の丙午年には子供を産まないように堕胎や密殺が行われ、明治の丙午年にも出生の届け出をずらす等不正が行われた。また丙午生まれの女性たちが婚期に入ると俗信は再び影響を及ぼし、丙午生まれという理由で結婚できず、それを苦にして自殺してしまう女性が多くいた。
昭和41年には俗信の影響により出生数が前年の25%減という大幅な減少が起こってしまう。これら大きな減少の理由として、マスコミの報道によって丙午俗信の認知度が上がったこと、簡便な避妊具の登場で大幅な出生数の低下につながったとされている。また筆者はこれらに加えて、明治39年の丙午生まれの女性達が俗信の影響で自殺したなど報道を知り、生まれてくる子供が不幸になってほしくないという想いから出産を避けた人が多くいたと考える。
昭和41年生まれの女性達の中に俗信の影響で不幸になったと語った女性は1人もいないことがインタビューからわかった。結婚においても丙午が原因で結婚できない事はなかったと話しており、丙午俗信の影響は少なくなっていると思われる。
次の丙午年である2026年は俗信が再び影響を及ぼすのか保育園の保護者を対象としたアンケート調査を行った。丙午俗信を知っていると回答した人は24%のみであり、また俗信を気にして出産を控えるかという質問に対しては控えないという回答が78%となった。
以上の事から筆者は昭和41年の出生減の理由としてマスコミによる報道や、簡便な避妊具の登場と共に、生まれてくる子供に対する想いがあったと考える。そして将来の丙午年についてはアンケート調査の結果と昭和41年生まれの女性へのインタビューから丙午俗信は社会に大きな影響を及ぼさないのではないかという結論を得た。

第4報告 鷹尾伏なるみ氏(奈良女子大学文学部)
「大衆演劇論-大衆演劇の30年後を考える-」
本発表は、大衆演劇のターゲットとする客層が今や「大衆」とは言えない状況にあるという問題意識から、座長経験のある4名の現役役者へのインタビューにより、30年後の大衆演劇の姿を想定するものである。
大衆演劇は直接のルーツを節劇と新国劇に持ち、浪曲やチャンバラ等の流行に伴った人気を得ていた。したがって昭和前期まではいわゆる「大衆」に向けた演劇であった。しかしこれらの流行が大きく移り去った現在は、「大衆」の王道から逸脱した感覚や趣向を持ち、ニッチでアンダーグラウンドなものを好むコアな観客が選び取る演劇であるという状況が事実としてある。殆ど毎日2回の3時間公演が行われており、内容も日替わりで、2000円前後と安価であるにも関わらず、時代劇を中心とした芝居を上演する大衆演劇は今の時代「大衆娯楽」とは言い難いのである。
この状況を鑑みて、インタビューにより、当事者である現役役者が【①どのような「経験・反省」を持ち公演を行っているか】、【②現在の客層の若年化と大衆演劇「流行り」についてどう捉えているか】を明らかにし、想定させられた30年後の大衆演劇の姿について提示する。
また、大衆演劇界で行われている、他ジャンルとのコラボ企画や配信サービス等の挑戦的試みにも触れ、大衆演劇の未来に向けた可能性についても言及する。

第5報告 平沢英一氏(ものつくり大学技能工芸学部)
「河川敷野球場の立地に関する基礎的研究:千葉県市川市を事例に」(オンライン報告)
本研究では、千葉県市川市が管理する河川敷野球場について、その歴史的経緯を資料に基づいて概観した。河川としては江戸川である。江戸川が流れる市区町村には、江戸川河川敷に野球場を含む運動場が、数多く立地している。その中で、市川市が管轄する河川敷野球場は、市の公式サイトによれば12面ある。現地を訪問して観察できたことに加え、歴史的経緯を調べるため、主に市川市中央図書館を活用し、資料を収集した。自治体史を含め、河川敷野球場はもちろん、河川敷そのものについてまとめられた資料が確認できなかったので、収集した資料それぞれの断片的記載を組み合わせ、市川市河川敷略年表を作成した。
本研究での発見としては、市川市の河川敷野球場が、河川の護岸工事と併行して整備されたことが特筆される。市川市が河川敷野球場を管理するようになったのは1972年(昭和47年)10月からであり、それ以前は市川商工会議所・北越製紙・明治乳業が占有していた。続く1974年9月の市川市議会定例会議録には、近年、グラウンドの水際が侵食され危険であること、雨後の排水も悪いこと、そのため湖岸工事が求められることが指摘されている。1975年の資料「市川市教育調査」には、事業計画のひとつとして「江戸川河川敷緑地整備工事運動施設の整備等」が記載されている。その後、文献資料に球場数が9面(1979年)・11面(1999年)・12面(2017年)と確認できるので、市川市では順調に開発されてきたことがうかがえる。一方、各種地図上に野球場(運動場・グラウンドの表記)が確認できるのは1980年代になってからで、文献資料とはややズレがある。  野球場の研究としては、スタジアムについては散見されるが、グラウンドはほぼ皆無である。本研究では、研究対象にされてこなかったグラウンドの一種として、河川敷野球場に焦点を当てた。

第6報告 三浦太朗氏(天理大学文学部)
「太鼓神輿の巡幸再開に見る祭りの意義-大阪府吹田市・山田伊射奈岐神社の事例を中心に-」
大阪府吹田市・山田伊射奈岐神社の秋祭りにおいて、太鼓神輿の巡幸はその中心となる重要な儀式である。しかし、その太鼓神輿巡幸は様々な要因から、数度にわたり途絶と再開を繰り返してきた。本研究ではそのことから、その途絶と再開の経緯を明らかにし、そこから山田地域の人々が伊射奈岐神社の秋祭りや太鼓神輿の巡幸にどのような意義を抱いているのか、ということを考察することを目的に調査研究を行った。
先行研究では、祭りの持つ意義、という部分について、コミュニティや地域のアイデンティティの形成という観点からの研究がなされていた。そのことから、本研究では祭礼が地域におけるアイデンティティの形成にどのような影響を与えるのか、ということを課題として設定した。
調査の結果、山田地域の人々にとっての祭りの意義は複数あることがわかった。まず聞き取り調査や参与観察からは「地域交流の場としての祭り」や「地域への愛着を深めるための祭り」という意義があることが読み取れた。また、山田の歴史、特に1970年に万国博覧会が開催され、その工事の影響で太鼓神輿の巡幸が途絶、その後山田商工会が中心となり太鼓神輿の巡幸が再開した、ということからは、新たに与えられた物事ではなく、古くからその土地に根付いてきた物事にその土地を見出すという「山田という土地のアイデンティティとしての祭り」という意義があることも考察できる。
そのほか、これらの調査でわかった意義から新たに、山田地域に住む人々が自らを山田地域に住む人間であると再認識するという「参加者にとってのアイデンティティとしての祭り」という意義もあることがわかった。  そして、特に「土地のアイデンティティとしての祭り」と「参加者にとってのアイデンティティとしての祭り」という意義は、程度の差こそあれ、祭り一般にも言えるのではないかと考える。

第7報告 谷 梓氏(島根県立大学人間文化学部)
「ナギワタの作成と使用に関する研究-箱メガネ普及以前の見突き漁における海中観察-」
船上から海中を覗いて貝類や海藻を採集する漁法を一般に見突き漁という。現在、見突き漁師たちは箱メガネを用いて海中を観察しているが、日本において箱メガネが普及し始めたのは明治末以降であった。つまりそれ以前、彼らは現在とは異なる方法で海中を観察していたことになる。
先行研究によれば、見突き漁は日本各地で行われており、箱メガネ普及以前は油分を海面に垂らして海中を観察していたという。油分を得るための材料には地域差があり、例えば島根半島では魚介類の内臓を腐らせ油分を生成したものを「ナギワタ」と呼んでいた。ただ、それらを用いた漁の実際は考察されてこなかった。
そこで本研究では、島根半島の見突き漁(カナギ)で用いられていたナギワタに関して、その作成と使用を考察した。まず、当時の漁師たちと同じ手法でナギワタを作成し、その過程を記録する復元研究を行った。結果、魚介の肝を用い、肝が液状化し油が抽出できるようになるまで空気に触れさせることが必要であることがわかった。
次に作成したナギワタを船上から海面に垂らし効果を検証した。先行研究により、油分には油膜を張り海面のさざ波を静める効果と、油膜を通して海中を透視する効果があると予想していたが、検証によりそれらは希薄かつ一瞬で無くなることが確かめられた。このわずかな効果で獲物を得るには、見突き漁師が持つ何らかの知恵やわざが存在するのである。
これを検討するために、箱メガネ普及以前に近い漁法、動力船を用いず櫓と櫂で船を操る漁師を対象に、見突き漁に関する知恵やわざを調査した。結果、漁師は獲物が確実にいる場所を熟知しており、海中の観察は「獲物を探すため」ではなく「獲物の位置を最終確認するため」であった。したがって、漁師の海中観察時間は少しで十分なのであり、櫂を操る技術や自身の身体に最適化された道具類を使用することで、ナギワタのわずかな効果でも漁が可能であったと考えた。

第8報告 北野新太氏(京都産業大学文化学部)
「町家に暮らす建築士の町家改修」
かつて京都に数多く存在していた町家は、昭和25年(1950)に建築基準法が施行され、伝統軸組み工法による町家が実質新築不可能となって以来、その数を年々減らし、現在では京都市の調査で約4万件(平成28年当時)となり、今では町家の街並みは失われつつある。街並みを遺すためには、街並みを構成する最小単位である町家、その一件一件を遺していくことが重要である。
町家を今後も遺していく手法について、町家を住居として現代においても快適に住めるように改修を行い、住み続けていくことも保存の形態の一つと捉え、町家に居住し長年町家の改修に携わっている建築士Aとの取材を通して、改修という形での町家の保存について研究、記録を行うことが本研究の目的である。
実際に建築士Aが町家に対し、どのような改修を行ったのかについて、3件の実例を挙げて解説を行う。その中で何を意図したかに触れながら、70年以上前に建てられた町家に現代も住み続けていくうえで、どのような改修が重要であるのか、また改修された町家を今後も町家の保存という観点で遺していくためにどのような点を意識したのか、町家改修とは何を重きに置いてどのような改修を行ってくべきなのかについて明確にする。  建築士Aへのインタビュー及び改修事例を通して、町家の保存を念頭に置いた際に改修において重要な点は、「周辺地域の環境に合わせること」、「構造を健全化すること」、「生活設備の現代化を行うこと」、「町家として伝統的な意匠を残すこと」、そして「自然との共生を目指すこと」、以上の5点が重要であるとの結論が得られた。

第9報告 江良みゆき氏(京都外国語大学国際貢献学部)
「生活文化からみた林業従事者の森林観-京北地域を中心とする林業地帯の事例から-」
本報告は、京都市右京区京北地域を中心として林業を営む林業従事者の森林観を考察したものである。
京北地域は平安京遷都以来、木材の供給地として発展してきた。今日まで、生産方法や労働形態、林産物の種類などが変化しながらも、地域の基幹産業として林業が営まれている。また近年は過疎化や高齢化、木材関連産業の低迷が深刻化し、その対策として、観光や教育関連のプログラムが実施されている。そのため、日々変容する地域社会の中で、地域住民による自文化の再認識・再構築が促されている。
以上を背景として本報告では、代表的な地域資源である木材や山に深く関わる同地域の林業従事者を対象に、暮らしや仕事に関わる経験や知恵が受け継がれる様子につき、聞き書きを通してその森林観の考察を試みた。
調査は、同地域で主に伐採及び搬出作業を担う林業従事者を対象に、「信仰」や林業に関わる「言葉」について、世代間の認識を確認した。その結果、木材の需要量や価格、林業機械器具の導入による働き方の変化を背景に、世代間で認識の差異が現れることがわかった。「信仰」においては、山の神に関する行事が廃れ、木や山を神格化する慣習がなくなりつつあり、また林業従事者の働く姿勢などを表す「木の世話」「働き者」「山にかえす」という言葉の認識は、その時々での林業の状況により更新されていることが明らかになった。
しかし、「良い木」が育つ環境を整える「山の世話」を継続することが、山の将来に良い影響となる「山にかえす」ことであり、これを安全と効率を考えたうえで将来を見据えて継続できる人物を「働き者」と称し、林業従事者のモデル像とする価値観は、世代を超えて共有されている。  このモデル像は、木や山を自身らと対等な存在として捉え、仕事相手のような姿勢で共生するという考え方であり、それが京北地域で林業を支える人々の森林観として歴史を超えて共有されていると考えられる。

第10報告 大家明都氏(佛教大学歴史学部)
「カラスに対するイメージ変遷-古代から現代にかけて-」
現代では特段カラスに対してのイメージが悪い。「怖い」、「不吉な予感を彷彿とさせる」、「穢らわしい」などといったイメージがよく聞かれる。しかし、古代の神話では天皇を窮地から救った英雄の一つ、また神の使いとして描かれている。つまり、日本人にとってのカラス像は非常に両義的であることが考えられる。
本研究では神話や伝承、他国からの文化の流入、暮らしの中での様子などと言った歴史的背景や文化的背景から、カラス像やイメージに対する影響を捉え、古代から現代にかけて日本人はカラスにどのようなイメージを形成し、変化させていったのかを考察する。また、否定的な現代とのイメージの差を紐解いていくことを目的とする。
本研究で明らかになったのは、次のとおりである。
古代では、記紀神話での八咫烏を中心に、古代中国の神話伝承や古くから日本で根付いていた鳥霊信仰の影響によりカラスが現代以上に神秘的なイメージで捉えられていた。
中世に入ると、熊野信仰の流行から武家社会や民衆社会で「起請文」が 使われるようになり、カラスもまた熊野権現の使いとして古代からの神秘性を維持していた。しかし、江戸時代では人口が増加したことでカラスは日常的な生き物へと変化し、そこで見られる光景や行動から悪いイメージを抱かれることが多くなった。  近代に入ると、文明開化の流れで喪服の色が白から黒へと変更されたことで黒色に対する死というイメージが定着するようになった。その影響から、カラスの特徴的な体色が死と結びつけられ、現代までイメージとして残るようになった。そして、それまで構築されたイメージに西洋からのカラス像が入り込み、日本のカルチャーでも批判的に描かれるようになった。現在では、環境問題を引き起こす当事者として行政レベルで問題視されており、カラスは負のイメージの塊と化しているのである。