第361回談話会(第10回修士論文報告会)

日時  2024年5月19日(日)12:30〜17:30
会場  京都産業大学むすびわざ館(京都市下京区中堂寺命婦町1-10)3階3A教室/オンライン(zoom)
共催  日本民俗学会

タイムテーブル

時刻内容発表者・報告タイトル司会・コメント
13:00〜13:05開会
13:05〜13:45第1報告佐々木一成氏(佛教大学大学院)「地域社会における“伝統”の生成と変容-富山県五箇山地域を事例として-」橋本 章氏(京都文化博物館)
13:50〜14:30第2報告奥田美優氏(佛教大学大学院)「日本における前火葬について-長野県伊那市高遠町藤沢を事例に-」村上忠喜氏(京都産業大学)
14:35〜15:15第3報告西尾栄之助氏(京都先端科学大学大学院)「いごもり祭の禁忌とその変遷」村上忠喜氏(京都産業大学)
15:15〜15:30休憩
15:30〜16:10第4報告羅 佳麗氏(関西学院大学大学院)「マンホールの蓋をめぐる都市民間伝承―中国北部の事例から―」(オンライン報告)今中崇文氏(京都市文化財保護課)
16:15〜16:55第5報告蒋 卓然氏(立命館大学大学院)「過疎地域における宗教の保存活動と地域組織との関係性―高知県物部町のいざなぎ流を事例に―」橋本 章氏(京都文化博物館)
16:55〜17:30講評・閉会

参加方法

■会員の方
・【対面参加】会場に直接お越しください。参加登録は不要です。
・【オンライン参加】会員の方のみご参加を申し受けます。5月16日(水)23:59までに会員宛てメールに記載されたエントリーフォームから申請してください。後日IDとパスワードをお送りします。オンラインアプリはzoomを使用します。

■非会員の方
・【対面参加】会場に直接お越しください。受付で参加費300円を頂戴いたします。参加登録は不要です。

報告要旨

第1報告 佐々木一成氏(佛教大学大学院)
「地域社会における“伝統”の生成と変容-富山県五箇山地域を事例として-」

 本研究は地域にとって“伝統”がどのようなものであるか、その生成過程や今日までの変容と地域での認識に注目することで明らかにする。その事例として富山県五箇山地域を対象とする。
 五箇山は近代において知識人の関心を集める場となった。その例が柳田国男や西條八十などの訪問と著作であった。彼らの訪問が契機となり、複数の郷土史家が誕生し、民謡を再発見し、その復興を手掛けていく。この時代の郷土史はローカルに閉じたものではなく、同時代の学術界や他地域の郷土史と強い繋がりを持っていた。こうした動きには五箇山を日本の中に位置づけようとする彼らの意志が認められる。
 一九六〇年代以降の五箇山は交通インフラの整備により一変し、観光地として注目を集めていく。この過程で郷土史家による郷土史は次第に彼らの手を離れ、観光の素材として“伝統”に読み替えられていく。また、その過程で“伝統”は「古き良き」といったイメージを帯び、生活の改善のためのインフラ整備がそれを破壊したと否定的に捉えられるようになる。しかし住民はそのイメージを観光業の基盤として受け入れていく。
 いま五箇山に生きる人々は“伝統”をいかに認識しているか。聞き取り調査によって祭、民謡、真宗行事などがその対象であると明らかとなった。これらを観光だけではない暮らしに根付いたものであると考察する。要点となるのは主体性の所在と継続の意志の有無である。地域における“伝統”は外部の表象による“伝統”と異質でも同質でもない相互補完の関係にあるものと捉える。それは外部の価値観を導入することで自分たちにとっての価値を創出し、その実践の中に生きているものとして見出すことが可能となるためである。
 これらのことから地域における“伝統”とは膠着したものではなく、人々の意志によって常に生成されるものと定位する。地域に単一の型としての“伝統”は存在せず、常に人々の価値観と実践に由来するものであるとした。

第2報告 奥田美優氏(佛教大学大学院)
「日本における前火葬について-長野県伊那市高遠町藤沢を事例に-」

 日本には葬儀の前に火葬を済ませる地域と、葬儀の後に火葬を済ませる地域が存在する。前者は先行研究や調査によって東北地方や長野県の他、幾つかの地域に存在していることが確認されている。本発表では、この葬儀前に火葬を済ませる地域について、①どのように行われているのかという実態と、②火葬受容の時期と背景について述べた上で、③何故葬儀前に火葬する形式が定着したのかという考察を行う。
 本発表で扱う事例は長野県伊那市高遠町藤沢のものである。藤沢は火葬場設立以前は土葬が主に行われてきた地域であるが、火葬に変化してからは「通夜-火葬-葬儀」の順で行っており、火葬に変化してからも野辺送りの際には棺台に骨壷を乗せて運ぶ、骨壷を墓穴に埋葬したのちに土葬と同じように土饅頭を築いて、遺骨を土に還すために、3回忌に掘り起こして埋め直す、といった土葬時代の習俗の名残を見ることができる。
 伊那里村(現伊那市)では1958年に火葬を励行するよう行政から呼びかけがあったが、実際に藤沢で土葬が火葬へと移り変わっていった時期は1966年から1976年である。つまり、実際に火葬が普及し始めるまでに8年のタイムラグが存在していることになるが、火葬へと葬法を変えた時期と、葬儀前に火葬をする形式にした時期は、いずれの事例もタイムラグがない。このタイムラグの有無について、実際に聞き書きをした資料と当時の新聞資料(伊那毎日新聞)から明らかにし、ここから葬儀前の火葬の採用理由について考察する。
 なお葬儀前に火葬を行う形式に対し先行研究では骨葬や遺骨葬、あるいは単に火葬などの名称が使用されてきたが、本発表では学術上の呼称についてそれぞれの言葉が指し示す範疇について概観した上で、「通夜-火葬-葬儀」「火葬-通夜-葬儀」といった順で行われる形式を「前火葬」、「通夜-葬儀-火葬」といった順で行われる形式を「後火葬」と呼称する。

第3報告 西尾栄之助氏(京都先端科学大学大学院)
「いごもり祭の禁忌とその変遷」

 本研究では、京都府の南部にある祝園神社(京都府相楽郡精華町祝園)と和伎坐天乃夫支売神社(京都府木津川市山城町平尾、以降は通称の「涌出宮」と記す)において、それぞれに正月行事として行われる「いごもり祭」の民俗誌的分析を行った。
 両社のいごもり祭は、神職だけでなく氏子を挙げての厳粛な忌み籠りを徹底することが特徴の神事であり、以前から祭の古態を残すものとして注目されてきた。戦前には井上頼寿や肥後和男、柳田國男などがいごもり祭を通して古代の祭の姿を想定し、戦後も林屋辰三郎、白石昭臣、上田正昭ほか多くの研究者がいごもり祭を古代文化へと接続している。昭和後期に文化財に指定された際も「祭の本義」や「古風な祭りの形態」を残すものと解説され、とくに涌出宮の祭は「宮座祭祀の中世的な特色」あるいは「宮座行事の中でも氏神祭祀の古風な儀礼をよく伝承している典型的な例」とされた。
 ところが、近年の民俗学において指摘されるような、「古代的」「伝統的」とされてきた民俗文化が比較的新しい時代に創出されている事例や、知識人や文化財の影響による民俗文化の変容や再生産といった事例を踏まえての、いごもり祭を再検討する調査研究は全く行われていない。
 いごもり祭は予祝儀礼を中心として悪霊鎮魂や宮座の座礼など複数の要素をもつが、とくに重要な要素として禁忌がある。祭の期間中、氏子は音を立てることを忌むため、戸口は開閉せずに筵を吊り、炊事もせずに作り置きの食事をとる。また神を迎える祭祀は決して望見してはならず、消灯して家に籠るか目を伏せる。とくに祝園神社では神事の望見不可を厳守するために、文化財指定以後に神職を白幕で隠すようになった。
 文化財指定以降のいごもり祭は、主体の変化として祭祀組織や神事の変更があり、外部の変化として地域の勉強会やNPO法人の発足がある。一方で2019年から2023年における調査記録をもとに整理と分析を行うと、祭に訪れる見物人の存在が非常に大きな影響を与えていることがわかる。見物人は文化財としての広報によって集客されており、コロナ禍において見物人が減少すると、厳密化されていた禁忌が緩和するなどの変化が起きた。
 いごもり祭は様々な要因によって変容と再生産が行われているが、とくに文化財指定の影響が強く表れており、それによって祝園神社のいごもり祭は閉鎖的な禁忌が厳密化し、涌出宮のいごもり祭は開放的な儀礼が厳密化していくという、対照的な変化が生起してきたことが明らかになった。

第4報告 羅 佳麗氏(関西学院大学大学院)
「マンホールの蓋をめぐる都市民間伝承―中国北部の事例から―」

 スウェーデンの民俗学者、Fredrik Skott は、スウェーデンとノルウェーで伝承されている「マンホールの蓋」をめぐる俗信について調査・研究している(“Folklore of Manhole Covers: Fears, Hopes and Everyday Magic in Contemporary Sweden,” in Tommy Kuusela, Giuseppe Maiello eds. Folk Belief and Traditions of the Supernatural, Beewolf Press, 2016)。こうした研究は、世界の民俗学を見渡しても見つけることが珍しく、現代民俗学の先駆的な業績であるといえる。
 本論文は、Scott のこの研究を引き継ぐ形で、中国北部の内モンゴル・北京・河北・東北三省をフィールドに、マンホール蓋をめぐる民間伝承について調査し、考察したものである。その結果、およそ以下のような結論を得た。
 まず、タブーがなぜ生じたのか可能な原因は大きく、①古代の井戸に対するタブーからの転移、②ケガレへの排斥、③安全への懸念、④群集心理の四つに分けられた。次に、タブーを解除する方法の原理を説明し、解く方法のいくつかは子どもや若者が面白がって創造したものではないかと推測した。また、古代から現代までの結婚習俗と合わせて、マンホール蓋に赤紙を貼るのが古代の習俗の継承と革新であることを解明した。
 最後に、マンホール蓋のタブーが人々の安全に関するヒントとなり、また結婚式の儀式感を高めることができるため、人々はこのタブーに理解と支持を示していることを明らかにした。

第5報告 蒋 卓然氏(立命館大学大学院)
「過疎地域における宗教の保存活動と地域組織との関係性―高知県物部町のいざなぎ流を事例に―」

 高知県物部町で伝承されてきた「いざなぎ流」は、平安時代から発展してきた神道、陰陽道と修験道とが融合する特徴的な民間信仰である。高木や小松をはじめとする民俗学者は、祭文や祭礼を中心とした信仰と沿革を検討し、いざなぎ流の様相の解明を試みてきた。しかし、現在では過疎化にともなって伝承が危惧され、いざなぎ流の保存活動や観光事業に関する地域組織が展開している。そこで本研究では、過疎地域における宗教の保存活動をめぐる地域組織の関係性を考察することを目的とする。いざなぎ流の担い手である太夫や、いざなぎ流神楽保存会の関係者への聞き取り調査や、祭儀や舞神楽公演において参与観察を試みた。
 現在、いざなぎ流を担う太夫は5人で、それぞれ3∼8人の弟子を指導している。50~80歳代である彼らの前職は農林業や建設業、介護業などである。出身地をみると、物部町大栃と市宇が多く、現住地は南国市や土佐山田町などである。ただし、弟子のなかには関東や近畿地方などの遠隔地の出身者もみられる。2010年代以降、いざなぎ流の保存活動に関する記録が多くみられる。現在では、保存会所属の神楽伝承教室は当地の小・中学生にいざなぎ流の神楽を教え、地域組織と住民の公演要請を引き受ける形でいざなぎ流の伝承の中心になりつつある。太夫集団と密接なこの保存会は、いざなぎ流を地域内部で伝承することを目指している。
 一方、2021年以降になると、太夫の弟子によっていざなぎ流観光事業が展開された。ここでは、太夫の師匠とは異なる伝承観を持つ弟子が儀礼の開示を求め、地域のNPO法人と連携し、積極的にいざなぎ流の対外的な発信活動を行っている。
 現在のいざなぎ流は、太夫と弟子だけが支えるという単純な関係では収まらない。宗教活動上の大きな裁量を有する太夫は、その権限の一部を保存会に譲り、いざなぎ流の「中核」を形成している。そして、いざなぎ流の「外側」からは観光事業者が関与し、保存と観光との間を揺れ動く重層的な構造が形成されている。