第370回談話会(第16回卒業論文報告会)

日時 2025年3月2日(日)9:50〜17:50
開催 京都外国語大学 R452・R451(4号館5階)
共催 日本民俗学会
時刻 | R452 発表者・報告タイトル・コメント | R451 発表者・報告タイトル・コメント |
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9:50 〜9:55 | 開会挨拶 | |
10:00 〜10:30 | 岸本和也氏(佛教大学歴史学部) 「擬制的親族関係の民俗学研究 ―伊豆諸島利島のモリ慣行を事例にして―」 コメント:後藤晴子氏(大谷大学) | |
10:35 〜11:05 | 長澤宏樹氏(京都産業大学文化学部) 「両墓制地域における両墓制の終焉とその後の墓制 ―香川県小豆郡土庄町の事例から―」 コメント:中野洋平氏(島根県立大学) | |
11:10 〜11:40 | 南 怜名氏(大谷大学社会学部) 「滋賀県の景観とまちづくり ―近江八幡市を中心に―」 コメント:中野洋平氏(島根県立大学) | |
11:45 〜12:15 | 山村祐輝氏(天理大学文学部) 「寺院と町の地蔵盆 ―奈良町の事例を中心に―」 コメント:今中崇文氏(京都市文化財保護課) | |
12:15 〜13:20 | 休憩 | |
13:20 〜13:50 | 後藤史羽氏(滋賀県立大学人間文化学部) 「鳥のむそう網猟をめぐる環境民俗学的考察」 コメント:東城義則氏(佛教大学) | 矢吹祐子氏(島根県立大学人間文化学部) 「出雲市域の祭礼における番内の研究」 コメント:三隅貴史氏(関西学院大学) |
13:55 〜14:25 | 白鳥春男氏(ものつくり大学技能工芸学部) 「JR吹上駅周辺地域を事例とした 門扉の開閉傾向に関する研究」 コメント:東城義則氏(佛教大学) | 吉田芽以氏(武蔵大学人文学部) 「秩父川瀬祭の民俗学的研究」 コメント:村上忠喜氏(京都産業大学) |
14:30 〜15:00 | 岸本晏奈氏(立命館大学文学部) 「農山村地域におけるジビエ提供の過程に関する研究 ―京都府福知山市と京丹波町を事例に―」 コメント:東城義則氏(佛教大学) | 谷川 奏氏(滋賀県立大学人間文化学部) 「月経をめぐる民俗」 コメント:松岡 薫氏(天理大学) |
15:00 〜15:15 | 休憩 | |
15:15 〜15:45 | 瀧口夏寧氏(立命館大学文学部) 「香川県高松市屋島山上における観光空間の変容 ―店舗立地と経営者の特性に着目して―」 コメント:三隅貴史氏(関西学院大学) | 西野祥太氏(佛教大学歴史学部) 「日本の前近代における異人」 コメント:村上忠喜氏(京都産業大学) |
15:50 〜16:20 | 横地里沙子氏(京都大学文学部) 「「テキヤ」を生きる ―U露店組合のフィールドワークから―」 コメント:三隅貴史氏(関西学院大学) | 松見恵太氏(佛教大学歴史学部) 「荒神信仰の変容―京丹後市の事例を中心に―」 コメント:村上忠喜氏(京都産業大学) |
16:25 〜16:55 | 森田友梨氏(関西学院大学社会学部) 「「買い物弱者」と移動販売 ―移動スーパー「とくし丸」を事例に―」 コメント:菊地 暁氏(京都大学) | 遠藤竜峰氏(天理大学文学部) 「源九郎狐の研究―奈良県における伝承の展開―」 コメント:東城義則氏(佛教大学) |
17:00 〜17:30 | 上條真楓氏(武蔵大学人文学部) 「松本あめ市の存続と継承 ―起源伝説が現代に与えた意義を読み解く―」 コメント:菊地 暁氏(京都大学) | |
17:35 〜17:45 | 講評 | |
17:45 〜17:50 | 閉会挨拶 |
参加方法
・対面参加のみとなります。会員向けのオンライン配信はありません。京都民俗学会・日本民俗学会の会員、学生は無料です。非会員の方は受付で参加費300円を頂戴いたします。
【報告要旨】
◆R452教室
岸本和也氏(佛教大学歴史学部)
「擬制的親族関係の民俗学研究―伊豆諸島利島のモリ慣行を事例にして―」
擬制的親族関係とは、非血縁者同士が法的な関係なしに親子・親族のような関係を結ぶ慣行であり、そのほとんどが高度経済成長やそれに伴う地域社会の変化の中で消滅・変容している。本論文では、現在も関係が結ばれている伊豆諸島利島のモリ慣行を対象にして、擬制的親族関係の現代的変化を捉えることを目的に調査、考察を行った。
利島のモリ慣行は、島内にいくつかある擬制的親族関係の型の1つであり、子守りをする少女(モリ)と子供(モリコ)との間の擬制的姉妹(姉弟)関係、そして子守りをする少女の親(モリオヤ)と子守りされる子供(モリコ)との間の擬制的親子関係を指す。
先行研究では、戦前から戦後すぐにかけてのモリ慣行について取り上げられており、主な特徴として、モリがモリコの子守りをすることや通過儀礼と密接な関わりにあることが報告されている。またその背景には、生業に忙しい大人の代わりに子供による子守りが必要であったことが挙げられる。
一方、フィールドワークで現在のモリ慣行を調査した際は、生業の工程の簡略化や福祉の推進から住民の生活に余裕ができたことで、モリによる子守りの必要がなくなり、通過儀礼も多くが消滅していた。その中でモリ慣行が継続されているのは何故か。戦前から現在までのモリ慣行に共通していることについて、聞き取り調査や大間知篤三の研究から、情緒的な結びつきの強さを窺えた。大間知篤三の報告にあるような「ナヅケモリ」というモリ慣行の変種には、子守りをせずに、モリ慣行と同様の結びつきを期待する特徴がある。このことから、現在の利島ではナヅケモリがモリ慣行に代わって定着していったのではないかと考察した。
長澤宏樹氏(京都産業大学文化学部)
「両墓制地域における両墓制の終焉とその後の墓制―香川県小豆郡土庄町の事例から―」
両墓制とは「死体を埋葬する墓地とは別の場所に石塔を建てる墓地を設ける墓制」であり、その分布は近畿地方や関東地方に密にみられている。民俗学では両墓制が術語として規定されてから約 90 年が経ち、その長い歴史の中で研究が発展や混迷、ついには限界とまで評されたが、現在でも多様な側面から研究が進められている分野である。
本論文では約40年前まで両墓制が行われていた記録のある香川県小豆郡土庄町の6つの集落を調査地として、火葬が導入され墓制・葬制がどのような変容を遂げたのかについて調べ、それらをもとにして今後の墓制について論じていきたい。研究方法はフィールドワークで、ヒアリングを軸とし6つの集落で 21 人に聞き取りを行い、それぞれ事例として紹介している。また一部特殊な形をした石塔は測量を行った。集落の墓地はそれぞれ異なった変容を遂げていたが、共通して「無縁墓」や「墓じまい」の増加が問題としてあがった。そこから祖先崇拝という思想が後退した現代での「死者のための墓」を再検討する必要があると論じた。
南 怜名氏(大谷大学社会学部)
「滋賀県の景観とまちづくり―近江八幡市を中心に―」
卒業論文のテーマは、「滋賀県の景観とまちづくり―近江八幡市を中心に―」である。
歴史的な価値を残していくことによる地域への利点について深く考え、3点の問いが生まれた。1点目は、景観を守る必要性とは何かである。2点目は、景観保全のために地域住民がどのような活動を実施しているかである。3点目は、景観保全による地域への還元とは何かである。
3点の問いを明らかにするため、異なる規模での保全活動に関する文献調査、近江八幡市と八幡堀を守る会に聞き取り調査、金堂への巡検を実施した。
結果として、景観保全によるまちづくりはもう少し大切にし、取り組む必要性があると考えた。文献調査では、過度な保全活動を実施し、地域に悪影響を及ぼした活動が見られた。しかし、取り組みでは、行政と地域住民が協力し合い取り組む事例が多かった。また、多くの団体と連携し、共通の目標を持っていた。八幡堀では様々な映像作品から市外や県外・海外といった多くの地域で知られる存在である。しかし、景観保全の理念は地域の人々の「誇り」となる、「終のすみか」となるものである。そのため、観光を主に取り組むのではなく、地域住民のためのイベント開催等を実施しているとわかった。金堂でも、八幡堀と同様に観光のための活動を実施していることは少なかった。地域の人々の憩いの場となるような取り組みを実施していた。景観は地域の人々の心の拠り所としての役割を持ち、人々の郷土愛を育むことができるため、景観によるまちづくりは重要であると言える。
山村祐輝氏(天理大学文学部)
「寺院と町の地蔵盆―奈良町の事例を中心に―」
本論文は、奈良市の奈良町の地蔵盆を調査し、寺で行われているものと町で行われているものを比較し、この特徴を明らかにし、地蔵盆の成立について考察する。
地蔵盆について、林英一は、『地蔵盆―受容と展開の様式―』で滋賀県を中心に調査した結果、町であることが地蔵盆を受容するための条件と主張した。こうした地蔵盆は、祖先崇拝的要素がなくなり、子供行事化したものである。しかし、奈良町では、死者供養の場である寺院を主体とした地蔵盆も数多く見られる。また、町の地蔵盆にも寺院が関わっている。対して、村上紀夫は『京都地蔵盆の歴史』で地蔵盆には、祖先崇拝的要素と死者供養の意味合いがあると述べた。そこから、現在の奈良町において町であることが受容のための条件であるのかと共に先祖崇拝的要素と死者供養の意味合いがあるのかどうかについて改めて検討した。
そのために筆者は、奈良町における現在の地蔵盆の実態を明らかにするために、2024年の7月23日に奈良町の地蔵盆と寺院で行われている地蔵盆について、聞き取り、観察を中心とした調査を行った。その結果、地蔵盆の運営には町の協力が必要であることと、祖先崇拝や死者供養的要素が薄いことがあらためて分かった。
この事例が、村上の主張と違うのは、時代の違いと地域が異なっていることが理由と考えられる。村上は近世を主に取り上げており、比較には近世の奈良町の資料を読み解く必要がある。また、調査範囲を広げで行うことが今後の課題である。
なお、今回の調査では、子供の安全祈願のために行うのが理由として挙げられた。これは、地蔵が子供の守り神であるという考え方が浸透していることが関係しているからだと考える。しかし、なぜ守り神のようになっているのかは、今後の課題として研究したい。
後藤史羽氏(滋賀県立大学人間文化学部)
「鳥のむそう網猟をめぐる環境民俗学的考察」
本研究では、鳥類の一狩猟方法であるむそう網猟を岐阜県でおこなう3者に調査を実施した。 むそう網猟は、その名の通り網を使用しておこなわれる狩猟であり、田畑や河川湖沼が狩猟をおこなう場とされる。そのため田畑・河川湖沼に飛来するカモやスズメが狩猟対象とされ、一度に数十羽が網に入ることもある。
従来の狩猟民俗研究は、山中で獣を対象におこなわれる狩猟に多くの目を向けてきた。一方で平地の鳥猟はあまり重要視されず、等閑視されてきたと考える。本研究では、山の獣猟に対置する平地の鳥猟の代表例として、むそう網猟を取り上げた。
3者の事例では、田や河川という狩猟場所の違いはあるものの、使用する道具に差異はほとんど見られず、個人でおこなうといった共通点も見られた。また、3者ともに遊びとしてむそう網猟を始めていた。
しかし、時間経過とともにむそう網猟に求める価値の違いに変化が見られた。それは狩猟で得たカモを売却し、いくらかの金銭を得ているが、成果物のカモよりも得るまでの楽しみ、つまり過程を重視する立場と、成果物であるカモの持つ経済的価値が増加し、むそう網猟が主生業の一部と化した立場である。
求める価値に差異は見られたものの、開始時点では3者に共通して過程から得られる楽しさが主目的の遊びであったことは確かである。この楽しさの享受が、むそう網猟という生産活動では大きな比重を占めるものの、生業化した例を踏まえると潜在的には大きな経済的価値をはらんでいると考えられる。
筆者は本研究において、こうした生産活動の過程にある面白みや楽しさの享受が主目的とされるものの、潜在的に経済的価値が大きく、生業化しやすい性格を持つ遊びを指す言葉として「周縁的遊び」を提唱した。これは平地の鳥猟の特色に留まらず、広い範囲に見られると考えている。そのため山の狩猟や他の生産活動を考える際にも考慮する必要があると筆者は考える。
白鳥春男氏(ものつくり大学技能工芸学部)
「JR吹上駅周辺地域を事例とした門扉の開閉傾向に関する研究」
本研究の目的は、日常的な景観要素である門扉の開閉状況に注目し、その要因について分析・考察を試みることである。
基礎データとして、対象地域とした埼玉県鴻巣市に所在するJR吹上駅の周辺地区に赴き、住宅の門扉を撮影した。調査期間は二〇二四年の三月八日から断続的に七月二九日までの実働二一日間である。門扉については開閉状況を確認するだけでなく、門扉の形態・住宅に対する位置・また庭の広さ・駐車場の有無を記録し、現地での視認が困難な場合、Googleストリートビューも併用して検討した。結果、総数一五四基の門扉についての基礎データを集めた。
今回の調査では、一五四基のうち開いていた門扉が五五基、閉じていた門扉が九九基の結果となった。分析すると、まず門扉はその形態によって、開閉状況に相違があることが分かった。両開き型・片開き型・親子開き型などが基本的には閉じている中で、アコーディオン型だけは開かれがち(開き二八基/三五基のうち)である。また横に長い門扉もまた開かれがち(開き四一基/六〇基のうち)であった。
興味深いのは、同じ形態の門扉でも地区ごとに開閉状況が異なることである。たとえば全体的には閉じられがちな両開きの門扉でも、某地区では(数値としては一桁台ではあるが)すべて開いていた。そもそも門扉は、開かれがちな地区と、閉じられがちな地区がある。その要因を考察するために、迅速測図との照合を試みると、古い集落を起源とする地区は門扉が開かれがちで、明治期に農地であった現在の(新興)住宅地は門扉が閉じられがちであると読み解けた。ただし古い集落を起源としても、周囲を新興住宅地に囲まれると、門扉は閉じられがちである。
岸本晏奈氏(立命館大学文学部)
「農山村地域におけるジビエ提供の過程に関する研究―京都府福知山市と京丹波町を事例に―」
本研究では、京都府福知山市と京丹波町を事例とし、ジビエが観光客に提供されるまでの過程を狩猟・解体・提供に3区別し、それぞれに関わる狩猟者や経営者などについて研究を行った。狩猟と解体については狩猟者、解体・精肉・販売を一貫して行う解体施設、そして提供については農家民宿を対象とした。
福知山市における狩猟免許の所持者は約360人、京丹波町は約120人を数える。解体施設は福知山市夜久野町直見と、京丹波町には塩田谷と上大久保の合計3か所ある。直見と塩田谷は2013年、上大久保は2016年に開業した。この年から福知山市の獣害被害額も減少している。施設経営者は自身で捕獲した個体のほか、受け入れを許可する狩猟者が捕獲した個体の解体・精肉・販売を行う。直見の施設では17名、塩田谷では7名、上大久保では1名の狩猟者が受け入れを許可されている。彼らは施設の近隣に居住し、かつての狩猟における恩師や経営者から狩猟講習を受けた人物だ。衛生上、ジビエは捕獲後1時間以内に施設に搬入されねばならない。つまりこの規則を厳守できる狩猟者だけが受入れを許可されている。
一方、対象地域内に13軒ある農家民宿のうち、ジビエの提供を行う農家民宿は福知山市と京丹波町に4軒ずつある。それらは、すべて3か所の施設のいずれかからジビエを仕入れている。2016年に京丹波町妙楽寺出合で開業した農家民宿は、上大久保の施設経営者と学生時代の同級生である。ジビエを提供する農家民宿は施設経営者と親交があり、施設から鮮度の保たれる1時間程度の距離に限定される。さらに、農家民宿の経営者にはジビエを調理する能力がある。例外として、2022年に福知山市夜久野町平野に開業した農家民宿には、ジビエを調理するために直見の施設経営者が訪れる。
このように福知山市と京丹波町では、狩猟者と解体・精肉・販売を行う施設経営者、そして提供する農家民宿経営者のネットワークによりジビエの流通が行われている。
瀧口夏寧氏(立命館大学文学部)
「香川県高松市屋島山上における観光空間の変容―店舗立地と経営者の特性に着目して―」
香川県高松市屋島は、四国八十八ヶ所霊場のひとつである屋島寺や、瀬戸内海国立公園の一部としての名勝的価値など、多様な観光資源を有する名所である。しかし、近代の山上における観光空間の変容については、必ずしも明らかではない。そこで、本研究ではそのプロセスを解明するため、観光施設の立地とその経営者に着目して考察する。
鉄道開通までの第1期では、屋島寺参詣が主要な観光目的であった。当時の山上には観光施設は特になかった。ただし、すでに遍路接待の文化が根付いていたため、屋島寺の小作人や山麓の住民は、山上や登山道で飲食を提供し、訪問客を受け入れていた。
その後、1911年に東讃電気軌道、1925年には官有鉄道の高松‐志度間が開通し、屋島への訪問客は増加した。そして山上には、山麓の塩田経営者や議員などの富裕層が2軒の宿泊施設を経営した。また、第2期にあたるこの時期には、相次ぐ皇室の訪問を契機に、「獅子の霊巖」や「談古嶺」などの景勝地が新たな観光資源として認識されるようになった。
1929年には屋島ケーブルが開通し、山上への移動が容易になった。さらに、鉄道を利用する新たな遍路の流行や、日本初の国立公園に選定されたことによって、屋島は香川県を代表する観光地のひとつとして確立した。この第3期には、先述した従来の遍路接待を行っていた人々によって、新たに5軒の飲食店や土産物店が開業した。
1961年には屋島ドライブウェイ、1970年には山陽新幹線の新大阪‐岡山間が開業した。こうした山麓‐山上や本州‐四国における交通網の発展、そしてマスツーリズムの流行を背景に、第4期の屋島は多くの団体旅行客が訪れる観光地になった。山上では宿泊施設が6軒、飲食店や土産物店が15軒に増加し、その多くは先駆者の血縁関係者によって経営された。そして、屋島の観光入込客数は1972年に過去最高の246万人に達した。
横地里沙子氏(京都大学文学部)
「「テキヤ」を生きる―U露店組合のフィールドワークから―」
本卒論は、バイトとしてテキヤの末端に加わって行った参与観察に基づいたモノグラフである。テキヤないし露店商については1960年代頃に社会病理学というくくりで研究がされているほか、現代のテキヤの慣習については厚香苗による研究が詳しい(厚香苗 2012『テキヤ稼業のフォークロア』青弓社)。
本卒論では、まず厚香苗による東京での事例分析を参照しつつ、U露店組合におけるテキヤ集団の構成と祭り運営の仕組みについて記述した。京都のテキヤは「組合」を形成し、組合が慣習的に保持している「場所」で商売を行う。U露店組合は「会長」をトップに10名程度の「組合員」が連なってタテの序列が出来上がっている。組合員とは言わば「テキヤの親分」であり、彼らはそれぞれ「子方」を抱えている。さらに組合員も子方も必要に応じてアルバイトを雇い入れたり、家族や恋人を働き手として連れてきたりする。このように京都のテキヤ組織は組合を核として働き手が集っている。また商圏である「場所」も組合によって管理されていることがわかった。組合はそれぞれ京都の一区画を自らの「ホーム」として所持しており、祭りごとにそれぞれの組合が管理運営を請け負う。
また、テキヤの親分へのインタビューでは「昔は暴力団でなくては商売が出来なかったが、今は暴力団では商売ができない」という語りを聞くことが出来た。暴対法の施行により現代のテキヤは「シロい」商売を行うことを要請されているが、それは在るべき姿への回帰なのだと親分は言う。また彼らは祭りの賑々しさを作りだす伝統的で義侠心にあふれるテキヤ像に誇りを持っていると語るが、露店商いだけでは十分に食っていけないのも現状である。ゆえに彼らは建築労働者や中古車販売業者としての顔も持つ。親分は祭りを守り、テキヤの慣習を守ることに心を配りつつも、一方で「自分の子どもには継がせたくない」という葛藤があることを述べる。
森田友梨氏(関西学院大学社会学部)
「「買い物弱者」と移動販売―移動スーパー「とくし丸」を事例に―」
本研究は、大阪府泉南郡岬町をフィールドに、移動販売がもたらす社会的意義について全国に1100台以上ある移動スーパー「とくし丸」を事例に実施調査を行うことで、日本社会が抱える買い物弱者の現状を把握し、時代によって変化する移動販売がもたらす地域への影響と今後の汎用性について明らかにするものである。
第1章では、買い物弱者を定義づけし、移動販売の歴史から都市での広がりと過疎・中山間地域での広がりまでをそれぞれ論じている。都市ではキッチンカーとして、過疎・中山間地域では移動スーパーとして移動販売が親しまれている。時代によって商売スタイルや顧客の需要形態も変化し、また地域によっての移動販売のあり方が異なることが見られた。
第2章では、全国で1100台以上稼働している移動スーパー「とくし丸」の仕組みについて論じている。「とくし丸」は移動費や人件費などの事業継続費を各商品に上乗せすることで、営利目的としてだけでなく慈善的に「売りすぎない、捨てさせない」ことを徹底することができている。また「とくし丸」は、全国に17万人の利用者が存在し、3日に1度顔を合わせてお話ができる人的ネットワークがある。この人的ネットワークが商品を売買するだけでない付加価値を生み出していることが見受けられた。
第3章では、実際に移動スーパー「とくし丸」が活動している大阪府泉南郡にある岬町に訪れ、販売同行を行った調査報告を論じている。販売同行をする中で、利用者を対象に「とくし丸」の利用動機についてインタビュー調査も行った。調査を通して「とくし丸」と地域の人々との関係性、そして「とくし丸」の位置付けという部分で事業主の利益と慈善事業との兼ね合いについて実際の現状を記録している。
第4章では、被災地の買い物弱者を事例に移動販売の今後の汎用性を論じている。移動スーパー「とくし丸」は2024年2月27日、総務省消防庁主催「第 28回防災まちづくり大賞」において、最優秀賞にあたる「総務大臣賞」を受賞した。こうした災害の現場で 「とくし丸」の強みがどのように活かされているのかについて、「とくし丸」が行ってきた被災地支援の資料をもとに考察している。
上條真楓氏(武蔵大学人文学部)
「松本あめ市の存続と継承―起源伝説が現代に与えた意義を読み解く―」
争っている相手が、争っている内容とは別の分野で困っている時、援助を与えることのたとえとして使用される「敵に塩を送る」ということわざ。これは、塩止めにより困窮していた武田領に越後の上杉謙信が塩を送ったという逸話「謙信の義塩」を語源とするものだ。
私の故郷、長野県松本市では、先の逸話に基づき、塩が到着したとされる1月11日に、謙信の義侠心を称えて塩を売る「松本あめ市」という行事が行われるようになったという「義塩伝説」が広く言い伝えられてきた。
しかし、江戸時代に編纂された古文書によると、古くから正月の市初めの行事として神主が塩を売るしきたりは存在していたものの、“なぜ塩を売るのか”という行事の開催目的は不明であることが分かった。また、明治期に刊行された調査報告書によると、松本の飴屋が塩俵の形をした叺飴を販売し、義塩伝承の流布に拍車をかける商売上手も現れたという記録も残されている。
そこで、松本城下の商人は、松本あめ市を商業都市松本の維持・発展のためのフックと捉え、明らかでない塩を売る理由を求め、逸話に由来する行事とすることで行事の意義が更に深まると考え、その起源として義塩伝説を付け加えたのではないかと考察した。
こうして創り上げられた起源に基づいて行われる現代松本あめ市は、新春の大売り出し的要素が強く、義塩伝説に由来した行事であると仮定した場合、史実に忠実とは言えない点が複数存在している。
したがって、その実態は義塩伝説に形式的に依拠しているだけに過ぎないのではないかと考察した。
そして、松本の商人が付加価値として付け加えた義塩伝説という起源に肖る形で実施される現代松本あめ市は、松本の地の活性化及び商業都市松本の復活のための手段と化しており、時代を経ていく中で、松本あめ市を風化させないよう形を変え、今という時代に合わせて多様化した年中行事としての姿であるのだと結論付けた。
◆R451教室
矢吹祐子氏(島根県立大学人間文化学部)
「出雲市域の祭礼における番内の研究」
島根県東部の出雲市域における祭礼には「番内(ばんない)」と呼ばれる者が登場する。彼らのすがたや役割は祭礼によってさまざまだが、これまでの研究では、出雲市大社町の吉兆神事を除いて注目されることはなく、その全体像は明らかでなかった。
そこで本研究でははじめに、吉兆神事以外の番内についてできるだけ多くの事例を集め、彼らの全体像を把握しようと試みた。自治体史や祭礼報告書などを対象とした文献調査に加え、約25の祭礼を実地調査した。その結果、出雲市内の祭礼560件のうち42件で番内が確認できた。番内が登場する祭礼の多くは氏神社や総社の例大祭で、その他、正月の歳徳神祭祀であることが明らかとなった。また、出雲市周辺地域の祭礼も合わせて調査したところ、これら地域の祭礼には番内と呼称される存在はいないこともわかった。
次いで収集した事例から番内の特徴などを考察した。まず、番内は祭礼において鼻高面もしくは鬼面をつけた者を指し、その他の仮面や直面の者を指すことはない。片方のみ登場する祭礼もあれば双方登場する祭礼もある。ただし、双方登場する場合では鬼面だけが番内と呼ばれ、鼻高面を「猿田彦」「天狗」などと呼称する例があり、逆に鼻高面だけを番内と呼び鬼面がそれ以外で呼称される例は皆無であった。
二種類の番内の役割はそれぞれ異なる。すべての鼻高面は獅子と共に行動し獅子と対になって獅子舞を奉納する。これは「獅子あやし」の役割と捉えることができる。一方、鬼面は基本的に割竹を持ち、時にはそれを地面に叩きつけながら祭礼行列の先頭を歩く。これは行列の「先払い」や「警固」と捉えることができる。つまり両者は祭礼においてまったく異なる存在なのであり、番内とは両者につけられた共通の呼称だということが明らかとなった。
ただ、番内という呼称の由来や分布が出雲市域に限定される背景など地域的展開については不明な点が多いため、今後の課題としたい。
吉田芽以氏(武蔵大学人文学部)
「秩父川瀬祭の民俗学的研究」
本研究では、埼玉県秩父市の秩父川瀬祭を事例に、山車の構造の変遷についてと担い手らによる技術の継承について、聞き取り調査をもとに考察した。
秩父川瀬祭とは、毎年7月19日、20日に秩父神社の夏の例大祭としておこなわれている。荒川の水で神輿を洗う川瀬神事と附祭として屋台4基、笠鉾4基の計8基の山車が市中で曳き回される。
この祭は、先行研究から少なくとも江戸中期以前から荒川に供物を流す川瀬神事がおこなわれていると考えられている。また、明治以降より附祭として山車が曳き回されるようになったが、絹産業の発展による経済効果が大きな理由としてあげられる。
鉾に榊や天道・石台・万灯・3層の花笠という構造は、秩父地域の山車の大きな特徴であり、周辺地域の伝承や担ぎ物の呼称から、現在の形状への変遷を推測することができる。
また、山車を出す8町のうち、宮側町の屋台と中町の笠鉾の分析と比較をおこなった。明治初期から牽引されてきた6町の山車は、全て笠鉾の構造であったが、電線架設の影響で4町が屋台へと改修された。土台や屋台下部の構造、部材の譲渡など、関係者への聞き取り調査によって、笠鉾時代の遺構を考えることができる。また、木彫には波や長寿を意味する意匠を多用しており、担い手に対して制作者の願いが表れていると思われる。
谷川 奏氏(滋賀県立大学人間文化学部)
「月経をめぐる民俗」
本研究では、月経習俗の終焉過程を見て、月経習俗がなくなった要因と月経の穢れ観変化について探ることである。月経習俗の中でも、月小屋という月経中に小屋へこもる習俗に注目し、主に漁村において行った。
聞き取り調査では、ムラに小屋はあるものの、話者や話者の親が月経中に小屋を使用した事例は聞けず基本的に産小屋として利用していたことが分かり、月経中の小屋利用はかなり前になくなっていることが分かった。また、月経時に神社への参拝や船に乗ることが禁忌とされたこと、月経の対処にボロ布と綿、新聞紙などを用いていたことが分かった。
結論、月経習俗のなくなった要因として、小屋の老朽化や学校教育、保健婦の衛生活動、生理用品の普及など挙げられる。習俗も無くなっていく過程として、基本的は小屋習俗の消滅から禁忌の消滅を辿っている。小屋習俗は小屋の老朽化や保健婦の衛生活動などにより無くなったと考えられるが、聞き取りの時点で習俗を聞き取ることができなくなっており、詳細はわからない。禁忌などの月経習俗は、生理用品の普及もあると考えられる。生理用品の普及によって経血漏れの事態が減少し、月経そのものへの穢れ観が薄れていったのではないかと考えられる。
穢れ観においては、現代において少し残るものの、月経自体を穢れとするのではなく、月経中であることを周囲に公開する、されることに対しての嫌悪感が穢れ観として存在しているように考えられる。
西野祥太氏(佛教大学歴史学部)
「日本の前近代における異人」
日本の共同体において、その構成員ではなく、主に外部から訪れてくる人々は「異人」という存在として定義され、彼らは外部の力を身に宿していると考えられた。彼らが共同体を訪れた際には様々な対応が取られていたが、その対応は時代や地域、共同体の状況に応じて変化するものであり、固定されたものではなかった。特に、古代からの共同体が様々な要因によって変化していく時代であった中世から近世にかけての前近代では彼らへの排斥を行っていく側面が見られていくようになっていった。
本研究では、「異人」が共同体の中で担った役割は何なのかを先行研究の文献を用いて研究していくと同時に、前近代の共同体で「異人」はどのような役割を担ったのか、そしてその変化には何が背景としてあったのかを「異人」が行っていた漂泊と定住の二つの側面を用いて研究した。その結果、「異人」は彼らが訪れた当時の共同体の内部構造を反映する役割を担う存在であり、その時の共同体の状況において、歓待や排斥などの対応が見られること、主に調査対象の時代とした前近代では共同体からの排斥が中心の対応となり、その背景には人々の移動が少なくなり共同体への定住が行われていったことや貨幣経済の普及、身分制度の始まりなどが挙げられると考えられる。
また、「異人」との直接的な関わりがなくとも、排斥に繋がる伝承も見られたことから、共同体の外部は災いをもたらすものであったと人々は捉えていたと考えられる。「異人」と共同体の関係について、現在では共同体の人々の関係の希薄化によってほとんど見られなくなっているが、これには前近代の外部から来るものに対する排斥の活動が大きく関わっていると考えられるため、今後の研究で検討していく。
松見恵太氏(佛教大学歴史学部)
「荒神信仰の変容―京丹後市の事例を中心に―」
本研究では、①京丹後市における荒神が信仰形態をどのように変化させ現在に至るのか。また、変化させる要因には何があるのか。②荒神を人々がどのように捉えているのか。また変化することをどのように考えているのか。以上の2点について過去の民俗調査の記録と2024年に筆者が実施した市内9地域の住民への聞き取り調査の記録を比較し考察を行った。
2014年に京丹後市が出版した『京丹後市史資料編 京丹後市の民俗』では、市内39カ所での聞き取り調査から、広い範囲で荒神が信仰されており多くの人々が信仰に関わっていたことを示している。一方で筆者が行った聞き取り調査では、祭祀を行う人々の高齢化や若者の都市部への流出、人々の生業の変化などの要因で祭祀の継続が困難となり、祭祀を継続することを目的として祭祀内容の簡略化や祭祀に関わる人々が変化したことがわかった。
また、祭祀に関わる人々の中で荒神がどのような神なのか曖昧となっている状況であることもわかった。火の神・農業の神などの性格を持つ事例や荒神以外の具体な神名を持つ事例があったが、祭祀に関わっている人物でも何を祀っているのか知らない事例も見られた。このように祀る神が曖昧となっている状況は、荒神の性格や性質に期待して祭祀を行うことを困難なものにしており、祭祀の継続を目的に祭祀の内容を変化させることに繋がっていると考えることができる。さらに人々の中で祀る神が曖昧である状況では、若い世代へ荒神の祭祀を行う意義を伝えることが難しく、祭祀を継続することを一層困難なものにしていると考えることができる。
遠藤竜峰氏(天理大学文学部)
「源九郎狐の研究―奈良県における伝承の展開―」
源九郎狐は源義経に縁のある狐で、奈良県大和郡山市の源九郎稲荷神社に祀られる稲荷神として知られている。源九郎狐については稲荷信仰の一例としてや、『義経千本桜』の研究で扱われるなど、民俗学と国文学から研究がなされてきた。だが、源九郎狐を祀る場所は大和郡山以外にも複数存在しており、先行研究ではそれらの源九郎狐を中心に扱った研究はなかった。そこで、本研究では奈良県内に祀られる源九郎狐を中心に扱い、それらの関係性や特徴について調査を行うことにした。調査方法としては主に奈良県内の狐伝承と奈良県内各地の源九郎狐伝承を比較する。結論としては、源九郎狐が奈良県内で広まったのには大和郡山城で源九郎狐が祀られたことと、『義経千本桜』の流行によるものであると考えた。源九郎狐を祀る場所は大和郡山市洞泉寺町の源九郎稲荷神社、同町の洞泉寺境内源九郎天仮本堂、五條市三在町の源九郎稲荷大明神・山髙稲荷大明神の祠、奈良市漢国町念仏寺境内の源九郎稲荷社、同町漢国神社境内の源九郎稲荷神社があり、県外にも広い範囲で祀られている。今回の発表では奈良県五條市三在町の源九郎稲荷大明神・山髙稲荷大明神の祠を扱う。
研究の結果、大和郡山城で源九郎狐が鎮守神として祀られたことで、源九郎狐に対して好意的なイメージが持たれるようになった。そして、大和郡山で源九郎狐が人気になった結果、奈良県内他の稲荷神社の稲荷が源九郎狐になる「源九郎狐化」が起こったと考えられる。さらには、1747年の『義経千本桜』が非常に人気を博したことで、奈良県内で祀られた源九郎狐に『義経千本桜』の要素が付け加えられる源九郎狐の「千本桜化」が起きたと考察した。