第43回年次研究大会

日時 2024年12月15日(日)10:30〜18:00
開催 佛教大学紫野キャンパス15号館 妙響庵ホール / オンライン(zoom)
参加費 1000円

10:30-10:35開会挨拶東城義則氏(京都民俗学会企画委員会/佛教大学宗教文化ミュージアム)
10:35-11:05第1報告
地域住民の協働と連携のあり方の変容に関する考察―宮崎県椎葉村の事例を中心に―
水野璃名人氏(同志社大学大学院総合政策科学研究科)
11:05-11:25コメント①
質疑応答
三隅貴史氏(関西学院大学社会学部)
11:25-11:55第2報告
八丈島の「かっぺた織」の記録作成における課題―個人蔵資料を対象として―
井坂弥生氏(京都芸術大学大学院芸術研究科)
11:55-12:05コメント②
質疑応答
村上忠喜氏(京都産業大学)
13:20-13:50第3報告
大福茶起源譚の形成と展開―空也堂伝来『王服茶筌由来記』を読む―
星 優也氏(池坊短期大学専任講師・華道文化研究所研究員)
13:50-14:10コメント③
質疑応答
渡 勇輝氏(佛教大学総合研究所)
14:10-14:40第4報告
享保四年、地蔵祭を始めた町―堀川四条西側町「地蔵尊御縁起」の紹介―
村上紀夫氏(奈良大学)
14:40-15:00コメント④
質疑応答
今中崇文氏(京都市文化財保護課)
15:10-15:40第5報告
「互助会」と婚姻儀礼―合理化のなかの非合理性
道前美佐緒氏(流通科学大学)
15:40-16:00コメント⑤
質疑応答
東城義則氏(佛教大学宗教文化ミュージアム)
16:00-16:30第6報告
〈生〉をめぐる社会運動と民俗学:方法としての「批判性」に関する試論
門田岳久氏(立教大学)
16:30-16:50コメント⑥
質疑応答
島村恭則氏(関西学院大学)
17:00-17:45会員総会
17:45-18:00閉会挨拶八木 透氏(京都民俗学会会長/佛教大学)
タイムテーブル

参加方法
■会員の方
・【対面参加】会場に直接お越しください。受付で参加費1000円を頂戴いたします。参加登録は不要です。
・【オンライン参加】会員の方のみご参加を申し受けます。12月12日(木)23:59までに会員宛てメールに記載されたエントリーフォームから申請してください。後日IDとパスワードをお送りします。オンラインアプリはzoomを使用します。なお参加希望者へのアプリ使用についてのサポートは行いません。

■非会員の方
・【対面参加】会場に直接お越しください。受付で参加費1000円を頂戴いたします。参加登録は不要です。

懇親会のご案内
当日は終了後にささやかな懇親会の開催を予定しておりますので、ご予定いただければ幸いです。
18時00分より佛教大学1号館地下食堂、会費6000円(予定)。

報告要旨

第1報告
水野璃名人氏(同志社大学大学院総合政策科学研究科)
「地域住民の協働と連携のあり方の変容に関する考察―宮崎県椎葉村の事例を中心に―」

 宮崎県椎葉村では、中山間地域における生活の中で住民同士の助け合いの習慣が形成され、継承されてきた。このような自然環境のもとに焼畑農法が発展し、独自の食文化が培われた。また、狩猟民俗的な要素を持つ神楽や農耕の作業歌であるひえつき節などの文化の伝統が今日でも受け継がれている。
 本発表においては、椎葉村に継承されてきた助け合いの精神のあり方について検討し、年中行事や祭事の重要性について考察する。椎葉村には「カテーリ」という助け合いの文化があるが、このような事例は日本各地に「ユイ」などの習慣として存在している。このような習慣や年中行事は地域住民の結束を強める上で重要な役割を果たしてきた。年中行事はその準備段階から住民の交流を促し、共同体の団結を強める機会をもたらし、その実施が地域共同体の結束の強化につながってきた。しかしながら、現代社会においては、かつて「ユイ」で担われていた仕事を行政や業者などに委託する機会が増え、住民の交流の機会が乏しくなり、地域住民の結束力が低下する傾向が生じている。近年、年中行事の規模が縮小され、頻度が減少する傾向にあるが、そのことが地域住民の団結力の低下をもたらす一因となっていることが椎葉村以外の地域における事例からも推測される。このような事象について、地域住民を対象とした聞き取り調査やアンケート調査の結果を参照しつつ、民俗学的視点から検討し、年中行事の開催を通じて培われてきた共助、協働の慣習を継承することの重要性について考察を深める。
 椎葉村の住民同士の助け合いと地域の結束力の強さは地域教育の分野においても発揮されている。椎葉村の山間部の尾向地区にある尾向小学校では、地域住民の協力体制のもとに焼畑体験学習が35年以上継続されている。児童はこの体験学習を通じて地域の食文化や先人の生活の知恵を学ぶ。地域全体が協力して取り組む地域教育がその特徴であり、このような地域教育の実施においては、住民の団結力に支えられた協力体制が重要な要素となっている。
 以上、本発表では、地域住民の協働と連携のあり方の変容について考察し、その意義について明らかにするだけでなく、現代社会における「ユイ」などの習慣や年中行事の継承のあり方についても言及する。

第2報告
井坂弥生氏(京都芸術大学大学院芸術研究科)
「八丈島の「かっぺた織」の記録作成における課題―個人蔵資料を対象として―」

 東京都八丈島に伝わる「かっぺた織」は、1962(昭和37)年にから1980(昭和55)年の間、玉置びん氏を技術保持者として文化財保護委員会から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の選択を受けていた手織りの技術である。「かっぺた織」の名称は文化財保護委員会による命名で、命名以前は細幅の織物を指す「真田」と呼ばれていたとされ、前掛けの紐や伊達締めなど日常の衣生活のために織られていたと伝わっている。また、技術的起源は推定によるところが大きく、明確に技術記録が確認できるのは玉置氏以降で、玉置氏と同世代、またはそれ以前の織り手については、確認できる伝世品もわずかな数にとどまり、時代や織り手による技術の比較検討には作例等が少ない。
 発表者は、2022年から現地調査を行い、実物や技法資料の所在の再確認を行うとともに、現地において技術指導を受け、試織・模製を行い、その技術的特徴を明らかにすることに取り組んでいる。
 現地調査において紹介を受けたO家には、O.M氏による多数の織り道具や作品が保管されていた。氏は島外での紹介事例は少ないが、玉置氏から直接技術指導を受けて制作を続け、1986(昭和61)年から約十年にわたり教室を主宰して、継承活動を行っていた人物であった。本発表においては現地調査の結果と氏の継承活動の事績を報告したい。
 また、現存するかっぺた織は、玉置氏による技術を基盤とし、O氏による技術的理解と習熟の過程を経て言語化された情報が、教室参加者に対して提供され、継承された事例であると考える。加えて、教室参加者の多くがO氏から提供を受けた道具や糸を使用していたことから、現存するかっぺた織の製織技術及び道具類に「標準化」が起きている可能性について、併せて検討したい。加えて、文化財や伝統工芸における指定や選択によって技術記録の収集が行われる際、収集される技術情報の「対象」と「非対象」の「選別」が発生する。対象となった織り手の特徴的な技術については記録が作成されるが、織りのバリエーションや対象から外れた織り手の技術は、収集の網目を透過してしまい、記録されないことが起きていると考える。特に民俗技術は産業化のための規格化に至っておらず、属人的で多様な特徴を有しており、より顕著に選別の影響を受けると考える。
 本事例をとおして、技術の「記録」は技術情報の全体を伝えることができない限界性を内包していることについて、また、それを念頭においた記録の作成及び利用について、考察を試みる。

第3報告
星 優也氏(池坊短期大学専任講師・華道文化研究所研究員)

「大福茶起源譚の形成と展開―空也堂伝来『王服茶筌由来記』を読む―」
 大福茶は、元旦三が日(元三)に梅や昆布の入った茶を飲むことで一年の無病息災を祈願するもので、京都の代表的な正月の喫茶習俗として知られている。現在も多くの製茶業社による大福茶も販売されている。いまでこそ、抹茶や煎茶、ほうじ茶など様々な大福茶が出ているが、近世のある時期までは、茶筅で煎茶を振り立て服するものであった。その茶筅は、茶の湯で用いる高山などで作られる茶筅とは異なる「常の」茶筅であり、空也堂の鉢叩たちが製造するものであった。その鉢叩たちが伝えた茶筅の由緒書が『王服茶筌由来記』である。
 空也堂が伝える茶筅の由来は、『空也上人絵詞伝』中巻が古く、その後に『王服茶筌由来記』と各地で伝来した茶筅由来書が知られ、それらは早くに柳田国男や江馬務が言及している。『王服茶筌由来記』そのものは、1970年代以降に茶道史研究者の熊倉功夫が取り上げて以降、知られるようになったが、本格的に読み解かれたことはない。内容は、天暦五年(951)に流行した病に対し、空也が牛頭天王の御告を得て祇園社南林で茶筅を製造し、自作の観音像(十一面観音)に供茶してそれを人々に施茶を行ったとするもので、やがて村上天皇自ら茶を服するようになったとする。それが空也堂の「王服茶」由来としている。
 現在知られているように大福茶は、庶民層に展開している「大福茶」と六波羅蜜寺の「皇服茶」、空也堂の「王服茶」がある。『王服茶筌由来記』は、空也堂「王服茶」の起源譚だが、同時に庶民層の「大福茶」起源譚にもなっており、その始原‐根源に始祖空也がおり、祇園社の牛頭天王が位置づけられている興味深いものである。
 本報告は、以下の点に注目し『王服茶筌由来記』の位置づけを行う。一つは、空也堂の鉢叩における職能由緒書として『空也上人絵詞伝』や茶筅由来書と比較し、いかにして茶筅の起源譚が形成、展開したのか。近年の由緒研究、神話研究を踏まえ、近世の神話形成の視点から考える。二つ目は、喫茶文化史の視点である。茶の文化史研究は、戦前以降に茶の湯関係の研究者による茶道史研究が目覚ましく進んだが、近年は茶道を含みつつ、それに限定されない喫茶習俗の歴史を「喫茶文化史」の視点で読み直す研究が進みつつある。報告者は、これまで中世神仏信仰史や神楽、いけばな史の研究を進めてきたが、本報告は、これまでの成果を踏まえ、喫茶の文化史、茶の民俗学の展開と今後の可能性について考えたい。

第4報告
村上紀夫氏(奈良大学)
「享保四年、地蔵祭を始めた町―堀川四条西側町「地蔵尊御縁起」の紹介―」

 報告者は小著『京都地蔵盆の歴史』において、「地蔵盆」の始まりについて、寛永年間に子どもたちが掘り出した石仏を地蔵として祭る流行現象が始まりであり、一七世紀の急速な都市開発のなかで埋まっていた石仏が各地で相次いで掘り出され、地域社会で信仰を集めるようになったことで、次第に年中行事としての「地蔵祭」となっていったと論じた。
 この点について決定的な史料を挙げるには至っていないが、17世紀以降、京都の地中から石仏が発見され、「地蔵」として祀られた例は複数例あり、小著ではこうした事例をもとに上述のような解釈を提案していた。
 しかしながら、そこでは掘り出された霊験あらたかな石仏への信仰が、いかにして共同体で繰り返される年中行事として「地蔵祭」に変容するかについては充分に論じることは出来ていなかった。流行神への個人祈願にすぎなかったものが、すたれることなく共同体による祭祀に移行することができたかという問題が残されていた。
 そうしたなか、堀川四条西側町で記された「地蔵尊御縁起」は、石仏の発見が「地蔵祭」に移行していく過程について検討するうえで興味深い手がかりとなると思われる。本史料には、「泥土に埋もれて」いた霊験あらたかな石仏を会所にまつり、享保4年(1719)に町内はもとより、広く寄付を集めて厨子を造立し、「七月廿四日会式」をするようになったことが記されている。
 本報告では、この「地蔵尊御縁起」の概要を紹介し、共同体祭祀としての「地蔵祭」の始まりについて見通しを示したい。

第5報告
道前美佐緒氏(流通科学大学)
「「互助会」と婚姻儀礼―合理化のなかの非合理性」

 現代日本の婚姻儀礼が外部化・均質化された要因の一つとして、国民の生活改善運動に呼応した冠婚葬祭互助会による婚姻儀礼の合理化があった。本発表では、互助会の創業者たちのライフヒストリーと、互助会が創出した結婚式場内部の参与観察から、婚姻儀礼の産業化の過程を検証する。
① 合理的な事業システムと創業者の「魂」
 西村熊彦は、1948年に日本初の冠婚葬祭互助会を横須賀市で発足させた。それは、戦禍に焼け残った祭具や婚礼衣裳を持ち寄って儀礼を行おうとする地域の相互扶助の精神に基づき考案された制度であった。一方、名古屋市民結婚式場の写真師であった山本信嗣は、粗末な婚礼を嘆く人々のために、低廉静粛な儀式を合理的に行う互助会制度について、西村に教えを乞うた。山本は、「制度を模倣して事業を起こすだけなら自分たちでもできる。しかし、そこには、創業者の『魂』を吹き込んでもらわなければならない」と考えていた(酒井1982:172)。
② 合理的な儀礼空間と相互扶助の精神
 山本は、結婚式と披露宴を合理的に行う結婚式場を創出し、「平安閣」と名付けた。また、山本は、地方都市に新たに発足する互助会に対し、無償の支援を続けたが、利益追求のみを目的とした新規参入者は排除した。そして、真の相互扶助の精神の証として「平安閣」を冠した結婚式場が全国に伝播した。
③ 頼母子講から株式会社へ
 互助会制度は、「講」の仕組みに端を発し、法人格を持たない「任意団体」でありながら、1971年時点で、互助会の前受金残高は60億円に達していた。これを看過できないとした田中角栄通産大臣は、消費者保護の観点から互助会に対する割賦販売法適用を求めた。これに対し、互助会の基本活動はボランティアであるとする山本らは、割賦販売業者と同列に扱われることに強く反発した。
④ 全国統一基準と地方の婚礼風習
互助会の法制化とともに、社団法人全日本冠婚葬祭互助協会が設立され、全国一律の基準が設定されたことにより、婚姻儀礼の合理化が完成した。一方で、互助会従業員らによる地域密着型の活動において、各地域の婚礼風習が尊重されていた。現代においても、兵庫県の互助会が運営する結婚式場では「おため袋」を扱っている。おため袋という嫁入り費用の相互扶助の慣習によって「隣近所がつながっていく」のだと、式場支配人は人々に伝えていた。
 以上のように、儀礼産業による婚姻儀礼の合理化の過程には、個人の「合理性では割り切れきることのできない意識・感情・感覚」(島村2019:65)があった。しかし、その非合理性が人々を動かし、企業を発展させたともいえよう。
参考文献
酒井美意子 1982『風雪を超えて―山本信嗣の歩んだ道―』財界展望新社.
島村恭則 2019「現代民俗学」桑山敬己・島村恭則・鈴木慎一郎『文化人類学と現代民俗学』風響社.

第6報告
門田岳久氏(立教大学)
「〈生〉をめぐる社会運動と民俗学:方法としての「批判性」に関する試論」

 民俗学が代替知(オルタナティブ)としての側面を有することはしばしば指摘されている。だがその代替性は、批判的人種理論やカルチュラルスタディーズのように直接的な政治経済批判を行うというよりも、別様の社会を描写し、「当たり前」を相対化するといった“控え目な批判”である。場合によってはノンポリとも言える民俗学のスタイルは、単にラディカルな批判を回避し、批判理論を矮小化したものに過ぎないのだろうか。あるいは“控え目な批判”にも戦略があるのだろうか。従来、社会批判と民俗学の関係については橋浦泰雄や赤松啓介など旧世代マルキストが学史的に触れられてきたが、現代における関係についてはなお検討の余地が残されている。本報告では社会運動と民俗学に関する下記事例の分析を通じ、民俗学における「批判性」の理論的可能性を明らかにする。
 報告者は佐渡島での研究活動において、ある「活動家」と関わってきた。彼は1970年代に三里塚闘争に参加したのち、佐渡鉱山の朝鮮人元徴用工の生活史などについて自分なりに研究してきた。民俗学に傾倒し、若い頃に宮本常一から直接影響を受けた彼の運動は、広い意味で民俗学の実践でもあった。だが晩年彼は元徴用工への聞き取りについて、社会問題への取り組みではなく、「労働者の生き方」を知るための活動だったと回顧し、他の支援者達を戸惑わせた。一見すると「生き方」の探究は、社会変革へのアクションを意味する社会運動とは距離がある。他方で彼の生活史収集は、鉱山史を美化する言説によって周辺化されてきた人々の〈生〉の探究を通して、ドミナントな〈社会〉に対する批判的想像力を紡ぎ出す活動でもあった。ここに、他者の経験を記述するフィールドワークと、批判的実践との間に回路を見いだすことができる。
 分析のポイントは2つある。第1に、なぜこの「活動家」は民俗学を思想基盤にしていたのか、言い換えると、社会運動の方法と民俗学の方法がいかに結びつきうるのか、ということである。第2に、直接的な批判、つまり権力批判や政治経済批判を回避する“控え目な批判”の意義は何かということである。現代は、「批判」や「批評」が力を失うポストクリティカルの時代であるとされ、民俗学や文化人類学においても権力批判や学問の政治性批判をするより、社会実装や社会連携を急ぐ傾向が強まりつつある。その意味で、批判的理論としての可能性を民俗学に見いだすことは時代錯誤的思索にも見えるが、この時代状況において敢えてそれを行うことは、権力、現実政治、資本と民俗学との距離感を可視化することにつながるだろう。