第40回年次研究大会のお知らせ

日時 2021年12月12日(日)13:25〜17:00
開催形式 オンラインによる(zoom)

タイムテーブル
13:25−13:30 開会
13:30−14:00 第1報告 本多健一氏(立命館大学研究員)「中世後期の大坂・堺における都市祭礼の基礎的考察」
14:00−14:10 コメント 内田忠賢氏(奈良女子大学)
14:10−14:20 質疑応答
14:20−14:50 第2報告 森田 玲氏(篠笛文化研究社)「地車(だんじり)とは何か?―川御座船をモデルとした俄(にわか)の芸能舞台―」
14:50−15:00 コメント 福原敏男氏(武蔵大学)
15:00-15:10 質疑応答
15:10−15:20 休憩
15:20−15:50 第3報告 市川秀之氏(滋賀県立大学)「昭和10年代の宮座研究」
15:50−16:00 コメント 渡部圭一氏(京都先端科学大学)
16:00−16:10 質疑応答
16:10−16:20 休憩
16:20−16:55 会員総会
16:55−17:00 閉会

報告要旨
第1報告 本多健一氏(立命館大学研究員)「中世後期の大坂・堺における都市祭礼の基礎的考察」
都市における祭礼(都市祭礼)が、文化や宗教、民俗の領域だけにとどまらず、その都市の経済や社会、時には政治と深く結びついていることはいうまでもない。特に他の時代と比べて都市の中で寺院など宗教施設の存在がきわめて大きく、よってその多くが宗教都市とも位置づけられる中世においては、神への信仰にもとづく集団的表象行事ともいえる祭礼の研究は、文化史や宗教史、民俗学のみならず都市史の分野でも重要なテーマといえよう。
中世の都市祭礼研究は、これまで京都、特に祇園会に集中しており、その他の地方都市においても祇園会が伝播した事例が数多く報告されてきている。一方、この時代において歴史上重要な都市が複数存在し、京都とのつながりも深い大坂・堺地域では、祭礼の研究が盛んであったとはいいがたい。古代であれば元仁元年(1224)をもって記録が途絶える八十島祭が注目されており、近世以降であれば天神祭などでの研究が蓄積されている。しかし中世になると、これまでは堺の都市史研究の中で祭礼に言及した論考が目立つ程度であった。
もちろんこれには理由があって、本地域における都市祭礼の記録には、その本質や核心にせまれるような詳細なものがなく、断片的に「祭礼があった」程度がわかる史料しか残されていないのである。しかし、それでもこれらを丹念に収集・分析していけば、大坂・堺における都市祭礼の実態や変遷が、おぼろげながら明らかにできるのではないだろうか。歴史上重要な地域でもあるだけに、このような作業を怠ってはならないだろう。
本発表では、以上のような問題意識にもとづいて、中世後期から近世初期(戦国・安土桃山期)の大坂・堺地域における都市祭礼の基礎的考察を行うものである。具体的には当時の堺・大坂寺内・天満・渡辺・天王寺といった都市において、どのような祭礼が執り行われていたのか(あるいは執り行われていなかったのか)という記録をとりまとめ、都市ごとに考察を加える。これらを通じて、近世以降現代まで引き継がれている大坂・堺の都市祭礼の源流などを考えてみたい。

第2報告 森田 玲氏(篠笛文化研究社)「地車(だんじり)とは何か?―川御座船をモデルとした俄(にわか)の芸能舞台―」
摂河泉・瀬戸内を中心に広く西日本に分布する神賑(かみにぎわい)の祭具である地車(だんじり)。その数は少なく見積もっても500台を越え、各地の祭の賑わいに欠かせない祭具となっている。これまで、地車については、天神祭と岸和田祭、その他一部地域の歴史研究や社会学的な調査報告があるものの、その発祥地の特定や伝搬の過程など地車文化圏全体を包括的に捉えた考察はなかった。それが遠因ともなってか、平成28年のユネスコ無形文化遺産に登録された「山・鉾・屋台行事」の中には、地車の系譜に連なる祭具は一つも含まれていない。しかしながら、一系統の祭具の伝播域と数量では、おそらく日本一を誇る地車の存在を、日本の祭、地域の祭の歴史文化を論じる上で無視することはできない。
本発表では、これまで明らかになされていなかった「地車の成立と展開の過程」について論じる。地車の形態は地域によって様々であるが、おおよそ、唐破風の大屋根・小屋根の二棟造の屋台で、太鼓と鉦を囃しながら曳行される形態が一般的である。地車といえば、今では岸和田が有名であるが、その発祥は享保年間(1716〜36)の天神祭をはじめとした大坂の夏祭である。
江戸時代の史料、現行の地車に残る有形無形の和船の記憶などから、そのモデルは淀川を往来した川御座船であり、俄(にわか)を披露するための移動式芸能舞台として生み出されたことがわかった。地車は、京都の祇園祭の山や鉾とはまったく異なる系譜にある、大坂独自の祭具であった。
江戸期の御座船とは、朝鮮通信使や琉球使節、参勤交代に用いられた二階建て構造の豪華絢爛の屋形船である。大坂までの海路は海御座船、大坂と京都・伏見までの淀川では川御座船が用いられ、道中に多くの見物人が集まった。また、俄(にわか)とは、ボケを活かした滑稽寸劇で、大坂や京都など都市部で大流行した大衆芸能である。
大坂で隆盛を誇った地車は、例えば、天神祭では天満宮に80台を越える地車が宮入りした年もあり、大坂三郷域全体では、各神社の台数を合計すると、一夏で、ゆうに百台を越えて曳き出されたこともあると考えられる(現在は大阪天満宮の一台のみ)。ただし、その造りは粗末なものが多く、多くは貸物屋からのレンタル地車であった。当初は「俄的趣向」で、あえて粗末な作りとされたが、その後、社寺建築の工法が採り入れられ、豪華な地車も造られていく。そして、各地に伝播する中で、今日の様々な形態の地車が生み出されていった。

第3報告 市川秀之氏(滋賀県立大学)「昭和10年代の宮座研究」
昭和10年代は日本民俗学の確立期であるが、この時期は宮座研究の興隆期にもあたり、『近江に於ける宮座の研究』『宮座の研究』などの肥後和男の宮座研究もこの時期に発表されている。肥後の宮座研究についてはすでに発表したことがあるが、今回報告するのは肥後の研究とほぼ同時期に進められていた諸研究の動向である。ことに取り上げたいのは①山村調査と宮座研究、②京都帝国大学における宮座研究、③大阪民俗談話会(近畿民俗)における宮座研究、の三つの動向である。
①の山村調査は民俗学確立期の代表的な共同調査として知られるが、三年間にわたる調査期間のなかで宮座の比重は徐々に高くっていっている。ことに滋賀県東小椋村を担当した関敬吾はこの地のいわゆる宮座に深く関心を抱き、インテンシブな宮座調査を実施している。木曜会や『民間伝承』で関はたびたび同地の宮座について報告をし、それは他の木曜会会員や全国の民間伝承の会会員に大きな影響を与える。地方への影響という意味では山村調査における宮座調査の意味は肥後の一連の研究に匹敵するものがあるかもしれない。②の京都帝国大学では昭和初期から西田直二郎などが主導する形で民俗学の研究会が組織されているが、昭和10年代に入るとそれ以前の学際的な学風から民俗学の独自性を主張する研究者が出るようになる。そのなかで歴史と民俗を結ぶ主要なテーマとして着目されたのが宮座であった。これは戦後の関西における宮座研究にも大きな影響を与える。③の大阪民俗談話会やそれを引き継ぐ近畿民俗は、関西各地で群居していた小学会が民俗学講習会などを契機に統合されたものであるが、そのなかでも上記の動きに呼応するように宮座研究がさかんに行われる。
本報告ではこれらの動向を概観したうえで、なぜこの時期に宮座が民俗学のテーマとして着目されたのか、そしてそのような動きのなかで受容された宮座の概念はいかなるものであったのかについて考えてみたい。

参加方法
・参加希望者は、12月8日(水)23:59までに会員あて告知メールに記載されている申し込みURLから申請して下さい。後日IDとパスワードをお送りします。
・参加者は原則として京都民俗学会会員のみとします。
・オンラインアプリはzoomを使用します。なお参加希望者へのアプリ使用についてのサポートは行いません。